日々映画を作っていく中で忙殺され、失われていく大切なはずの記憶の数々。映画監督・藤井道人がそんな映画や人、言葉、瞬間を保管しておくための企画「けむりのまち -Fake town-」を始動させた。「生きていく上で忘れてしまうだろう記憶たちの集積場」をテーマに、様々な出会いを通して、映画が作られていく過程や、映画業界の改善に向かっている様を伝えていく。記念すべき第一回は、藤井が日常の中で感じたことの徒然。藤井を作りあげた様々な人との「言葉」や「出来事」を通して生まれた感情を書き落とす。
『夜たちの備忘録』
36年生きていると、素敵な夜がいくつもある。
師匠のことば、尊敬する俳優の金言、仲間との誓い。
ただ、そのほとんどは翌日に忘れている。
まるで夢だったかのように。
そして、毎回後悔する。あぁ畜生、あんな素敵な夜ならなんで書き留めておかなかったのか!と。
そして、また次も同じ過ちをおかしてしまい「しょうがない、人間だもの」と諦めていた。
人間は、沢山のことを忘れて生きている。死ぬほど大変だったあの撮影も、好きだったあの子の仕草も、手にした栄冠の重さも僕は等しく忘れていった。
そして、歳をとるにつれ忘れていくスピードは加速していく。出会いが演算式に増えていき、インプットが飽和する。
毎日、短い息継ぎで明日という対岸に向かって必死に泳ぐ。
何のために泳いでいるのかも、目的がどこかも忘れてしまう。
ここ数年ずっとそんな感じだった。
「もう、これ以上忘れたくないな」
ある日、僕はマネージャーに「連載をやりたいんですけど」と連絡をした。
彼は、映画『青の帰り道』以降、一緒に苦楽を共にした恩人であり、パートナーである。マネージャーは「どこにそんな余裕があるんですか!」と必死に僕を諌めたが、自分のことばで、自分が生きてきた時間を書き記しておきたい、そう伝えるとすぐに媒体を決めてきてくれた。
それが「EYESCREAM」さんというのも冴え渡るセンスである。
去年、僕の師でもあり父でもあったスターサンズ河村光庸が急逝したが、彼がまだ映画ではなく出版業に勤しんでいたときに創刊した雑誌が「EYESCREAM」であった。
河村さんのことは、ようやく人に笑いながら話せるようになった。いつかここでも書きたいな。河村さんは本当に人に迷惑をかける天才だったから。そこは、しっかり受け継いでいきたいと思う。
気づけば、映画のもつ魔力に取り憑かれ18年。大学1年生のオリエンテーションではじめて声をかけた同級生の山田久人や志真健太郎たちと『BABEL LABEL』を作り、自主映画を作り続け、沢山の人との出会いによって僕たちは少しずつ変化していった。
インディーズ界隈で嘲笑の的だった我ら泥舟が、30人を越える会社組織に変わり、それぞれがそれぞれのフィールドで頭角を表し、夕方から安居酒屋に飲みにいくことも少なくなった。それでも、寂しさよりもワクワクのほうが強いのは、これから来るであろう試練や壁をぶっ壊すほうが単純に楽しそう。というのと、僕たちが異常なほど楽観主義者だからだろう。
とてつもなく貧乏だったけど、60円のわかめラーメンは食べれたわけだし、貯金が尽きたらCMのメイキングの仕事もパチスロ雑誌の撮影の仕事だってあった。イジメぬかれたデビュー作のギャラは○円だったけれど、自分が勉強として投資をしたと飲み込んだ。そしてこんな業界俺が変えてやると、反逆心に火が着いた。
今では本当に感謝している。
中学1年生からの親友でBABEL BARのオーナーのアッキー。
悔しい悔しいと吠えていた20代の時に手を差し伸べてくれた、山田孝之、阿部進之介。
売れない時代を共に生き抜いた戦友の横浜流星。
映画作りの面白さをいつもアップデートさせてくれる兄貴、綾野剛。
いつまでも憧れの存在、野田洋次郎。
相棒の撮影監督、今村圭佑。
腐れ縁のプロデューサーたち。
最愛の映画人、河村光庸。
家族、マネージャー、藤井組のスタッフ、
そしてBABEL LABEL。(敬称略)
そんな僕を作ってくれたさまざまな人たちとの、素敵な夜もお届けしたい。
もちろん僕がそれを忘れないためであるのだけど。
前置きが長くなりましたが、藤井道人と申します。恥でも、忘れてしまえば何も残らないので、残してみることにしました。
ただ、毎月つらつらと駄文を書いていても、読者の皆さまも飽きてしまうでしょうから、仲間との対談や、皆さまの質問への回答など、さまざまな企画を考えています。本が作れるくらいには続けたいな。
新参者のため、色々とご迷惑をお掛けすると思いますが、今後とも応援宜しくお願い致します。
映画監督 藤井道人
※本連載にて、藤井道人監督への質問を募集。
監督が一問一答形式でお答えするので、
聞きたいことや気になることがある方は、
こちら宛にお送りください。