SlothL BPM Vol.3 : 永井玲衣

「余白を大切にしたい」

この連載の発起人であるヘアスタイリストの森田さんと、編集を担当するリキマルさんから、具体的な連載のテーマを聞いたのは、連載が始まったあとのことだった。
僕はこの連載で写真を撮るという立場から、そのテーマを受け止め、しかし特に深く考えず、なんとなく始まった連載で写真を撮り続けていた。
もしかしたら、それで続けていても誰も困らなかったかもしれないし、むしろテンポよく続く連載を誰かが楽しんでいたかもしれない。
けれど、加速主義な現代において減速主義を提案した連載にも関わらず、僕たちは加速主義や減速主義が何を意味するのかさえまるで理解していなかった。
余白を大切にするとは、ゲストにプレイリストを聞くことなのか? 減速主義は本当に価値のあるものなのか? いったい余白とは何なのか?
いずれにせよ、考えることから、話し合うことから逃れることが、大切な余白に繋がるとは到底思えなかった。
内容を見つめ直すことに決めて、幾度もの話し合いを重ねた結果、この連載に関わる、森田さん、りきまるさん、僕たち三人が共有した言葉は、余白が大切だと思うこと、でもなぜ余白が大切だと思うかを上手く説明出来ないということだった。
リニューアルされたこの連載では、ゲストと共にそれを探求し、ゲストが日常のなかで実践する余白を一緒に体験しながら、僕たち自身がその意味をより深く理解していくことを、表現として記録することを目的とする。
今回のゲストは、哲学研究家として活動する永井玲衣さん。永井さんが実践している哲学対話を通じて、余白について考えてみた。

PROFILE

永井玲衣

哲学研究科。学校・企業・寺社・美術館・自治体などで哲学対話を幅広く行っている。D2021メンバー。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。連載に「世界の適切な保存」(群像)「ねそべるてつがく」(OHTABOOKSTAND)「問いはかくれている」(青春と読書)「むずかしい対話」(東洋館出版)など。詩と植物園と念入りな散歩が好き。

「でも、当たり前だけど、私が考えていいんですよ」

菊地:余白の実践に入るまえに、永井さんのことを是非知りたいんですが、小さい頃はどんな子供だったんですか?

永井:子供の頃は……いまもそうですけど、世界がとにかく怖くて。あまりに不条理じゃないですか、世界って。不思議でいっぱいとも言えると思うんですけど。だってコレ(テーブルの上のグラスを指差す)とかも意味分からないじゃないですか。“水って何なんだろう”とか。私は絶対に皆さんにはなれないとか、人が考えてることを本当の意味で知ることは出来ないとか、そういう奇妙さに慄いている子供だったと思います。だからこそ、それが今では“問い”という形になって、人々と一緒に考えるっていう活動に繋がっていますけど。当時は言葉も持っていないから、ただモヤモヤ・イライラしてる感じだったと思います。

菊地:僕は音楽が好きなんですけど、とつぜん音楽を好きになったわけじゃなくて、母親が家でよく音楽を流してたり、当時を振り返れば、音楽を好きになるきっかけが生活の中に溢れていたことも音楽好きになる要因だったと思うんです。その当時、永井さんの生活のなかにも、哲学的な思想を好きになるピースのようなものが転がってたのか気になります。

永井:なんでしょうね……人生にハプニングが多めだったんで(笑)。

菊地:話せる範囲でよかったら……

永井:なんだろな、ポップなハプニングがあればいいんですけど(笑)。ひとつ抽象的な話をすると、私、渋谷出身なんですね。それってすごく心細いことだったんです。どこにも根ざせないような感覚があって、繋がりみたいなものが全然ない。いわゆる『都市暮らし』で地元に知り合いもいなくて、家族もばらばらで、地元は絶えず変化していて、自分が誰かっていうピン留めが出来ないんですよ。何かよすがになるものが全然なくって、その不安定さが自分を育ててしまったところはあるかもしれないですね。人と人が繋がって一緒に考えるとか、ちゃんと話すみたいなことを喪失していたからこそ、“対話が出来る場所ってどこにあるんだろう”って、いま探し回っている気がします。

菊地:その当時、モヤモヤやイライラに囚われたとき、逃げ道になるようなものって何かありましたか?

永井:文学でしたね。詩や文学、演劇、音楽、カルチャーが好きでした。私は本を親だと思っているので(笑)。

リキマル:永井さんのご実家にはたくさん本がありました?

永井:や、そんなでもなかったかな。でも本はいくら買ってもいいよっていう家だったので、そこは救いでしたね。

菊地:どんな本を読まれてたんですか?

永井:中学生のころは図書館に行って、名作文学全集を“あ”から順番に読んでました。芥川龍之介、安部公房って順番に読んで。小学生のときは児童文学でしたね。

菊地:話が飛びますが、哲学研究家はどんな活動をする職業なんですか?

永井:難しいですね~。私、じつは職業名がないんですよ。こういう働き方をしてる人って他にあんまりいないので。多くの場合は大学から大学院に行って、博士課程で博士号を取って大学に就職するんです。哲学家の主な活動って論文をとにかく書くことなんです。でも私は哲学を学ぶんじゃなくて、哲学をするっていう方に関心を持ったので、いろんな対話の場所を開く実践家になったんです。それを作家として書いたりもしているので、肩書きを聞かれると難しいですよね。

菊地:何かきっかけがあったから、実践家になろうと思ったんですか? 

永井:こういうふうになったのは成り行きだと思いますけど、『わたしは何かを考えてもいいんだ』って手触りを高校生のときに初めて持ったんですね。それは哲学書のおかげだったんですけど、私はそれまで自分の考えを持たなかったし、誰かが考えてくれると思ったし、そもそも自分の考えなんて誰も聞いてくれないと思ってたんですよ。でも、当たり前だけど、私が考えていいんですよ。私は何かを考えてそれを表現して良くって、それがままならなくても、ポツリポツリとでも表現していいんだってことに気がついたんです。『え!? 私が考えるんだ!?』みたいな(笑)。で、これをやろうと思ったし、これをもっと人に言いたいと思って、それで今に至ってる気がします。

菊地:そうだったんですね。本を出版されたり、メディアに出演されたりと、様々な活動をされていますが、全ての活動に一貫してる想いっていうのは、いま話してくださったことですか?

永井:そうですね。私が考えていいし、私たちには考えてることが絶対にあって、私たちには『問い』がある。路上生活者の人だって子供だっておばあちゃんだっておじいちゃんだって、私たちは絶対何かを考えている。でもそれを表現する場所がこの社会にあるだろうかっていうのが、私のここ十年の問いですね。それがあまりにもなさすぎると感じるから、作らなきゃいけないっていうのは、私が行う全部の活動の根底にあることです。

菊地:哲学研究家として、永井さんはどんな時に忙しなさを感じますか? 世の中の真理を考えることで、忙しなさを感じたりしませんか?

永井:忙しなさって何だろうって、それは凄く良い問いですよね。考えて忙しなくなるっていうのはニュアンスがちょっと違う気がするんですよ。私が忙しないなって思うのは、絶えず締切が来るとか、そういうことなんですよね。“今日は原稿が書けなかった”っていうことに押し潰されそうになるとか。忙しなさと焦燥感って手を繋いでいる感じがします。たとえば『なんで生きるんだろう』って考えちゃうことって、忙しなさとは違う気がするんですけど、どうですか?

菊地:たしかにそうですね。

森田:忙しなさって『ヤバい!』っていう焦燥感に近いと思うんだけど、でもそれがあるからこそ、余白っていうものが映える気もするというか……スミマセン、自分の感覚の話になっちゃうんですけど。

永井:ぜんぜん。みんなで話しましょう!

森田:忙しなさってマイナスなイメージがあるけど、プラスでもあるような気がして。忙しくなかったら“余白”は“空白”になっちゃう気がするし、何かがあるからこそ余白なんだなって思うんです。映画とかも内容がないと面白くないけど、逆に詰め込まれ過ぎてるものは好きじゃない。こっちに問いを残すようなものが好きだなって思います。

永井:問いと余白って関係してると思っていて。私たちは凄く忙しなく生きていて、『早く確定申告しなきゃ』とか『早く楽天ポイント使わなきゃ』とか、そういうことばっか考えてるんですけど、そこでふと『あれ? 私なんのために働くんだっけ?』っていう問いが降りてくるんですね。それで私の忙しなさが余白に変わるというか、ぐぐっと隙間ができて、全ての動作がゆっくりになるように感じられるんですよ。まるで水中に潜っているときみたいに。それまで走っていたのに、急に立ち止まってしまうという営みが“考える”ということであるならば、考えるってこと自体が余白なんだろうなというのは、いま森田さんの話を聞いて思いました。

菊地:僕はいろんなことをワーッて考えてネガティブになっちゃう時があるんですが、永井さんは色んなことを考えて気持ちが沈むことってありますか?

永井:もちろんありますよ(笑)。ネガティブになる原因のひとつが、一人でやるからだっていうのは思ってるんですよね。私はその場で一緒に考えながら喋るのが好きなんです。例えば、取材とかでもカメラマンさんに『どう思います?』とか聞いちゃう(笑)。私が大学で学んだ唯一のことは、“哲学するとか考えるっていうのは一人じゃ出来ないよ”ってことだと思うんです。何か悩んだりするのって一人で考えてるからで、それを引き剥がしてここにポンと置いて、皆んなでいじくってみると何か大丈夫になったりする。もちろんネガティブにはなるけど、“これは一人で担うもんじゃない”って決め込んでいれば、ほんとのほんとには落ちていかないと思います。

リキマル:歴史上の有名な哲学者ってたくさんいるじゃないですか。その人たちって弟子とか仲間とディスカッションして考えを構築していったんですか?

永井:それは面白い質問ですね。皆さんは知ってる哲学者って誰かいますか?

リキマル:サルトル

菊地:カント

森田:ニーチェ! あとは~~……わからないです(笑)

永井:ソクラテスって聞いたことないですか? 

一同:あ~!

永井:実はソクラテスは一文字も言葉を残さなかったんです。彼の言葉は全部プラトンっていう弟子が書いたもので、彼自身は街に出かけて色んな人と会話をして哲学をしていた。だから哲学の起源はそういうものだっていう人もいます。

一同:へえ~。

永井:いま名前が出た人たちはみんな、仲間たちと対話をして哲学を編んでいったと私は思っています。本を読むっていうのも、他者と対話することだと思うので、そういう意味では完璧に独りきりで、何者も排除して、独力でやったっていう人は、私はいないと思っています。

リキマル:哲学ってそもそもがコミュニケーションなんですね。

永井:私は哲学的であることは対話的であることで、対話的であることは哲学的であることだって言ってます。『違うだろー!』って言われることもありますけど(笑)。

菊地:かなり直球な質問なんですが、誰かとコミュニケーションし続けるって、相手に好意を持ったり興味がないと、なかなか成立しないと思っていて、永井さんは人って好きですか?

永井:あはははは!(笑)

菊地:昔の話を受けて、今の永井さんの活動や考えを聞いていると、どこかのタイミングで人に興味を持ったんじゃないかなと。

永井:昔はたしかに“人嫌だ”みたいなのはあったかもしれないですけど。なんかね、人っていうのはいないんですよ。『あなた』がいるだけっていうか。

菊地:詳しく教えてください。

永井:つまり、人一般って概念ですよね。たとえば『子供』っていう存在はいないじゃないですか。『○○くん』『○○ちゃん』がいるだけで。それは対話をして実際に会うわけです。出会う前はすごく怖いんですよ。“知らない人”って存在だから。でもこうやって話すわけですよね。そのときに、何か飲んだりだとか、足を組み替えてみたりだとか、そういう身体の振る舞いを見たり考えを聞いたりすると、“その人”っていうのが立ち現れてくるわけです。そうすると、その人が好きとか嫌いとかっていう次元の話じゃなくなってくる。一緒にいるっていう事実が圧倒的に先立っているので。ただ目の前のその人の言葉を聞きたいなって思うし、その人と一緒に考えたいなって思う。嫌いだからこの人の話は聞かないとか、好きだから聞くとか、そういうことじゃなくなってくる。“地球好きですか?”みたいな感じかな。『え、地球? まあ好きだけど……』みたいな。地球が好きだから生きるとかじゃないですよね。圧倒的にここで生きているってことが先立っているから。

リキマル:『皆んな』は存在しないってことですよね。ひとが100人いるってことは『あなた』が100人いるっていうか。

菊地:すごく理解できました! 話を戻します。永井さんの考える忙しなさをもう少し伺ってもいいですか?

永井:はい! 忙しなさっていうのは…… 走り続けなきゃいけないと思い込まされてる状態、なのかな。『なさねばならない』って思ってるときですかね。ただ私でいるってだけじゃなくて、何かをなさねばならない、BeingじゃなくてDoingじゃないといけないって思い込まされて、焦っているときを忙しないと感じますね。例えば、確定申告でいうと、あなたは納税者で、こういう肩書きで、これをやってお金を稼いで、期日までに書類として出さねばならない、みたいな。

菊地:なるほど。

永井:確定申告してるあいだってすごく切ないじゃないですか。この仕事は五千円なんだ、とかそういうのに向き合わなきゃいけない。私の時間に値段が付けられているな、みたいな。私が望んでるわけじゃないのに、何か外部の価値付けによって規定されちゃう。それが切ないんですよ。そういうシステムの中で生きてるよね、っていう事実と向き合うのは、忙しなさと関係してる気がします。

菊地:永井さんは、そんな忙しなさをどうやってかわしていますか?

永井:こうやって人と考えることですかね。考えなきゃいけないことはいっぱいあるけど、『私は何を考えたいんだろう?』って考える機会がない気がしていて。問いを感じてモヤモヤするって機会があまりにないと思うんです。私はそういう場所を作りたいと思ってやっているんですけど、それは自分のためでもあるんですよ。私の問いに、私たちで一緒に向き合うっていう時間が、私にとっての余白になってる。

菊地:今日、僕らも永井さんが活動として行っている哲学対話を実践としてやりたいと思っているんですが、ぜひお願いしてもいいですか?

永井:もちろん、やりましょう!

菊地:余白が何なのか、なぜ余白を大切だと思うのかをテーマとして哲学対話をしたいです。

永井:しましょうか。この場では良いことを言わなくていいし、いくらでも考えが変わっていいし、分からないっていっぱい言いたいし、急がない場でもありたいと思ってます。そこで始めるまえに、三つの約束をしたいんですけど、まず一つ目が『よく聞く』。いっぱい話すよりもお互いの話を聞き合うことに集中しましょう。二つ目が『偉い人の言葉を使わない』。ズッコケたり遠回りしたり分かりにくくても自分の言葉で話すことにこだわりましょう。三つ目は『人それぞれだよね』で終わらせない。人それぞれだからこそ、こうやって集まって話すので。ゆっくりやりたいので、このお砂糖を持っている人が話をします。で、お砂糖を持っているときは、言葉に詰まったりしても、皆んな待ちます。じゃあ今から三十分、『余白って何だろう』という問いで話しましょう。ちなみに、絶対『余白って何だろう』以外のことは喋べっちゃいけないとかもないので。ポンポン話は飛ぶと思いますけど、全部つながっているので大丈夫です。『これ関係ないかも……』って思うことでも絶対に関係あるので。ではどうぞ!

「だから余白って、カギカッコ付きの『無駄なこと』なんですよね」

菊地:じゃあ、はい。いま僕はデザイナーの友達に協力してもらいながら自分の写真のZINEを作ってるんです。でも、僕は自分のことを写真家だとは思っていなくて。音楽が好きだから写真を撮っているし、音楽の素晴らしさとか音楽の持つパワーを少しでも多くの人に共有できたらなと思っていて、そういうことをZINEでまとめようとしてるんですけど。で、写真だけを枠いっぱいに並べたとき、友達に『余白がない』って言われたんですね。それで話し合った結果、写真以外の枠を設けて、その余白に自分の言葉を綴ったりとかってどうかなってなって。これは余白についての僕の実体験なんですけど……つまり…………なんて言うのかな……うーん……ちょっと考えたいので、これで終わりです。

永井:はい。他の方はどうですか?

リキマル:僕も全然まとまってないし、うまく話せるか分からないんですけど。僕、『意味しかないもの』ってあんまり好きじゃなくて。映画とかでも全部がストーリーに関係ある作品って疲れちゃうんですよ。クエンティン・タランティーノって監督が好きなんですけど、この人の映画ってマジで本筋とは関係ない話ばっかりなんですよ。でも最後はそれが前振りみたいになっていて。だから無駄とか意味のないことって必要だし、実はちゃんと意義があって、それが余白だなって。僕が一時期出版社と契約して小説を書いていたとき、本筋と関係ない会話のシーンとかめっちゃ長く書いてたんですよ。そしたら編集者のひとに『これって意味あんの?』とか言われて削られて。僕的には『これがいいんじゃん!』って思ってたんですけど。そういう余白があることによって、物語により奥行きが出るんじゃないか、というのを考えているんですが……ちょっとまとまらないので、これで一旦終わります。

永井:なるほど。

森田:僕は美容師をしていて、凄く恵まれてる状況にいるですけど、それをずっとやっていると疑問っていうか、『変にならないかな?』って感じることが都度都度あって。自分が得することよりも、相手が喜ぶことのほうがテンションが上がるんですよ。売れないバンドがいて、そのバンドをいろんな人に知ってもらうために頑張ったりして、それで知ってもらえたときに喜んだりとか。自分が活動している抱樸のボランティア活動も凄く大変で。一日に三十人近くの髪を切ったりとか。ある意味修行だし体力的にもキツいけど、そこに行くと普段見えないものが鮮明に見えて、当たり前のことなんてひとつもないなって思うんです。“やってあげる”って感じじゃなく、“もらってる”って感じがしていて。心から喜んだり悲しんだり、数日間でいろんな喜怒哀楽があって、それがすごく刺激的で、帰ってきたときにモチベーションが上がるんです。それが僕にとって余白っていうか、お金には変えられない経験なんですよ。まあ、行ったら忙しないんですけど(笑)。

永井:いま皆さんの話を聞いていて、共通してるところがあるなぁというのは、ZINEも写真を敷き詰めたらある種の良さはあるかもしれないけど、でもそこで余白を作って文字を入れるとか、小説に意味のないシーンをあえて入れるとか、森田さんも抱樸に行ってる時間でお金をとって髪を切れば稼げるのに、でもわざわざ北九州に行って30人の髪を切るとか、そういう一定の尺度で『無駄』といわれることをする、っていうのが余白であるならば、そこの余白の良さっていうのは絶対にあるわけじゃないですか。その良さってなんて表現したらいいんですかね?

菊地:いまぱって思ったのは、息継ぎ的なことなのかなと。僕のZINEの話で言うと、もしかしたらそれはデザインの話じゃなかったのかもなぁって。リキマルさんの“意味があることが嫌い”って言葉でハッとしたんですけど、僕が作っているZINEは、僕が伝えたいことでしかなかったんですよ。被写体がいて、それをカメラにおさめてパッケージングして届けるっていうのは、こちらのアイデアを一方的に押し付けるってことでもある。余白っていうのは、自分だけが息継ぎをすることじゃなくて、見る人も息継ぎができるスペースのことなんじゃないかなって思いました。

永井: ほお!なるほど。

リキマル:機能性とか有効性とかを追求しすぎちゃうと息苦しくなりますよね。意味があることだけしか存在しちゃいけない世の中って、怖いし嫌だし疲れるし。それこそ永井さんが本で仰っていたことですけど、アクション映画で何の背景も描かれずに倒されていく脇役について書かれていましたよね。でもたとえば、その脇役の背景を描いて『ああ、こういう人いるよね』ってなったとき、ストーリーに奥行きが生まれるというか。単にストーリーのために存在するキャラクターじゃなくなる。だから『無駄』っていうものがあることによって、人に優しくできたりとか、“いてもいいんだよ”って大きな意味を与えられたりもするのかなって思いました。

森田:意味がない人なんていないし、みんなひとりひとり名前があって、人生があって、考え方があって。全員が正しい生き方をしてきたわけじゃないけど、でもそれを否定しちゃいけないし、差別もしちゃダメだと思うし。失敗なんてみんなするし、間違わないことってないから。でもだから人間っていうか。大谷翔平みたいな人なんてそんないないし(笑)。間違ってしまうことを肯定しないと世の中終わっちゃうし。それは自分が肯定してもらうためでもあるし、生きてたら何とかなるんだよっていうことでもあるのかなって、思います。

永井:私もまとまってないんですけど、余白って一見すると、“忙しない日常の中でホッと一息つける時間をつくろう”みたいな話で終わっちゃいそうじゃないですか。おしゃれなカフェでお茶飲んで余白の時間、みたいな。そういうことでもあるかもしれないけど、もっとスケールの大きい話がしたくて。『これは無駄、これは意味がある』っていう価値観そのものを問い直す行為だと思ったんですよ。ここの余白が大事なんだって言い張ることは、これとこれとこれだけが意味があるんだって主張する社会に対して、そんなことないぞって声をあげることでもある。自分ひとりだけじゃなくて他者にも向けて『ここって大事だよね? 大事だと思っていいんだよね?』って伝えて考えさせるというか、そうやって巻き込んでいけるものだと思っていて。“湖に行ってリフレッシュして明日からまた仕事頑張ろう”とかそういう話じゃないなってイメージが、いま三人の話を聞いて湧いてきました。

菊地:実は減速主義と加速主義について調べたときに、まさにいま永井さんが仰っていたことに似た記事が出てきて。サウナとかグランピングとか、その瞬間は減速するかもしれないけど、それは明日始まる仕事に向けての休息だから、けっきょく加速主義に向けられた行動なんじゃないか』みたいなことが書いてあったんですよね。

森田:脈略もなく自分の話になっちゃうんですけど、こないだ、自分を肯定できたというか、すごく嬉しかった出来事があったんです。美容室で初めての方から予約がきて、音楽とかファッションとかカルチャーに興味がある二十歳の男の子だったんですけど、ずっと引きこもりでパニック障害を持っているっていう子だったんですよ。それで、“どんな子が来るんだろう?”って僕もちょっと緊張してたんです。昔いたお店で髪を切ってたときに、パニック発作で失神した女の子がいたんですよ。そのときはどうしていいかわからなくて、とりあえずスタッフルームで休んでもらったあとに髪を切ったんですけど。それが良かったことなのかわからなかったし、後々周りのスタッフにも『あんな風になったらもうカットなんて出来ないでしょ』とか言われたりもしたんですけど、でもわざわざ来てくれたお客さんを途中で帰すことは僕にはできなかったんですね。で、その男の子がこないだ本当に来てくれたんですけど、パニックなんて一つも起こさなくて、すごく喜んでくれたんですよ。目がキラッキラしててすごくピュアな子で。うまく説明出来ないし、余白と関係ないかもしれないですけど、本当に嬉しくて…。

永井:胸がいっぱいになっちゃった。“無駄なことって言われちゃうけど無駄じゃないんだよな”って森田さんが最初に仰っていたことが、いま凄くよく分かって。だから余白って、カギカッコ付きの『無駄なこと』なんですよね。反転すると、私たちは限定された『意味のあること』って価値観の中で生かされていて、それに抗うというか。経済的な価値観でいえば、“お金を貰って一人の人間の髪を切っただけでしょ?”みたいな話にされちゃうけれど、でも今の話で私たちは凄く揺さぶられるわけですよね。『それ以外の価値があるよ』っていうこともまた余白なのかな。心がワッと揺れたときの揺らぎが、普段のキチンとしている日常を動かしてしまうみたいな、それが私たちにはすごく必要な気がする……あ、30分経った(笑)。

リキマル:余白って個人的なことじゃないんだって思いました。森田君の話もそうだけど、誰かに影響を与えるってことが余白なのかもなとも思いました。自分が誰かに影響を与えるなんて、生きてて普通思わないじゃないですか。でも僕もZINEを作って発表したりして、たまに褒められたりすると、“俺って誰かを面白いって思わせられるんだ”って毎回びっくりするんですよ。そういうとき、こんな自分でも存在していいんだって思うんですよ。余白によって保たれる自尊心……とか言ったら寒いですけど、心の糧になるというか。森田君のその話はとても良い話だね。本当にすばらしいことだと思う。

永井:影響を与える……余白をそういう観点でちゃんと語ってるものってあまり見ない気がしますね。どうしても個人化したものになってるイメージがある。他者を関わり合いにするし、影響を与えるようなものとしての『余白』っていうことをもっと言っていかないと。それは社会の価値観に抵抗するってことでもありますよね。連帯的なものだったり、人を誘うものだったり、考えさせたり、立ち止まらせたり、笑わせたり…。今日は表現における余白っていう話がたくさん出来たと思います。哲学対話って時間が来たら急に終わるんですよ。

森田:対話ってすごく大事だし必要だと思いました。こういうことって絶対やってくべきだなーって。

菊地:森田さん、だから始めたんです。

永井:ここで繋がった(笑)。

他人を変えることは出来ないし、社会を変えることも出来ない。でもそれを思いやることで、私が見る世界があなたの見る世界と触れ合い、繋がり、広がっていく。余白という問いが対話となって、気づくと自分の視点を超え、他者と見つめる世界となっていた。まだぼんやりとしているその景色のなかで、不思議と許されたような、穏やかな気持ちのなか、いまとてもワクワクしている。

永井さんの考えや活動に少しでも興味を持った方がいましたら、永井さんの著書「水中の哲学者たち」を是非読んでみてください。https://www.shobunsha.co.jp/?p=6703

INFORMATION

SlothBPM

森田康平
連載の発起人のヘアスタイリスト。東京は鶯谷町に佇むTETOROで働く傍ら、デザインチームHEVDSのメンバーとして活動している。

山塚リキマル
SlothBPMでライティングを担当する、自称SF(ソウルフル)ライター。Time out tokyoで連載を執筆しながら、自費で雑誌「T.M.I」を出版。ヤングラブ名義での音楽活動や、ネオ紙芝居ユニット・ペガサス団でも活動中。

菊地佑樹
SlothBPMでディレクション、ライティング、写真を担当する、国内外の音楽シーンを中心に、現行のリアルなカルチャー・シーンを文章や写真で記録するジャーナリスト。音楽から人生の大切な対象を見つめなおすプロジェクト『Re:view』を主催。