孤高にオルタナティブに、道なき道を歩み続けるバンド、GEZANのフロントマンであり、先日、初となる小説『銀河で一番静かな革命』を発表(即、重版)したマヒトゥ・ザ・ピーポー。GEZANとしてもドキュメンタリー映画『Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN』の公開が控えるなか、町田康との対談が小説発売記念イベントとして実現した。ともに大阪のパンクシーン出身であり、ともに30代前半で小説デビューを果たした二人。生きてきた時代、経験は違えど、音楽と言葉を操る両者がはじめて出会い、対話した。
いつもどこかで鳴り響いている重低音が小説になった
町田:『銀河で一番静かな革命』、とても面白く拝読しました。三つの視点を切り替えながら、小説は進みます。ひとつ仕掛けがあって、カバーを外すと字が書いてあるんですよね。実はこの小説の前提となる状況を表した、重要なキーとなるもので、それは小説の本文にも書いていない。最初にカバーを外して読む人はなかなかいないから、多分読み終わった後から気がつくんですけど。その部分も含めて、話が進んでいくんです。これ、どこまで言っちゃっていいんですかね?
マヒト:今、幸せな気持ちです(笑)。
町田:ある程度、空想的な設定ですね。SF的というか、突飛な設定。普通は突飛な感じでそのまま話が進んでいくんですけど、この小説は人間の一人ひとりの気持ちというか役を演じている。ともすれば話に奉仕するだけ、ストーリーに奉仕するだけの人間として意味のない人になりがちなんですよね。設定がSFチックなんだけど、ものすごく写実的な表現です。すごく狭くて日常の世界。普通のSFは大きな世界の設定で考えるけど、「ここに落ちてるゴミ拾って掃除せな。」みたいな感覚なのが面白いですね。小説でこれが出来るのはそうそうないですよ。
マヒト:今日から作家を名乗れそうなくらい嬉しいですね。
町田:これはどれくらいの時間をかけて書いたのですか?
マヒト:1年半くらいですね。
町田:かなり長いですね。やめようと思わなかったですか?
マヒト:ルーティーン生活をしたことがなかったので新鮮でした。小説を書くのが楽しかった。昨日と今日のサイクルが同じという、これが生活ってやつなのかと思いました。ただ、直しは大変でしたね……。
町田:ある程度曲を作って、途中ちょっと変えたりとかと一緒の感じですか?
マヒト:必要な時間の量が全然違いました。本を書くってこういうことなんですね。
町田:人にインタビューされるときって、一番嫌なのが、「どんな作家が好きですか?」 って聞かれることだと思うんだけど、あえて聞きます(笑)。
マヒト:その質問はやっぱり苦手ですね(笑)。あんまり本も読まないし。
町田:なんでそういうことを聞いたかというと、文章や歌詞に特徴があって。音楽の人が小説っぽくしようとすると、文学的にしようとする感じが出てくるけど、そういう臭みがない。大阪だからかな。普通はそういうものが出てきてしまうんです。東京で活動していると、ある程度商業的というかメジャー的なものがあるから、それに合わせてなんとなく形を整えることから始めていくんだけど。外側をつるっとさせるというか、そういうのが大阪はなくて。
マヒト:東京の人に理解されてたまるか、みたいな感覚もありましたね。一方で、小説は自分なりにつるっとさせたつもりでもあるんですけどね(笑)。
町田:まぁ、人に伝える以上はね。
マヒト:ただ、何かに寄せようっていう気持ちは最初からなかったかもしれない。
町田:やっぱり時代の表現というのはあると思うんです。時代によって人は変わっていくし、人の好きなものも変わっていく。みんな忘れているけれど、街の感じも10年前、20年前とは全然違う。この小説の中には今現在の気分が入っていると思う。登場人物に特徴がいくつかあって、あらかじめ何かに打ちひしがれてると思うんですね。なんかわからんけど、ダウナーな感じというか。書き出しの一行目から諦めている感じというか。それは例えば孤独、貧困、母子家庭、事業の失敗というか、バンドやってても報われることがあまりない。そのなかで、皆ひとつの期限を感じながら生きている。その実際の設定の突飛性と写実がどちらも描かれて素晴らしいです。社会の期限と、自分自身の生の期限、ここから先は生きられないっていう感じは、時代的な気分なのかなと思いましたね。その辺は意図して書いたんですか?
マヒト:その辺は普段から感じています。すごく鈍い音で重低音が聞こえているような。SNSを見てもいろいろな意味で破綻していますよね。それは政治のことだけじゃなくて、生活って言われるものすべてに言えると思う。表面を取り繕ってるけれど……。
町田:根底が崩壊している。
マヒト:大きな流れを変えるっていうことに参加できない自分がいて。昔は音楽業界は景気が良かった、本もたくさん売れた、みたいな話をよく聞きますが、僕らが音楽を始めたときを思い出しても、恵まれた環境ではなかったです。最初からちょっと諦めてるところから始まってて、それがいろんなジャンルにあてはまると思う。2019年に起きているいろんな出来事も、スナップ写真として切り取られるような感じがする。SF的な部分が描きたかというよりは、終焉の重低音から逃げれなかったんです。この先、小説を書くのかはわからないけれど、SF的な視点は生活と同義となっていくような未来が見えますね。
町田:決して、突飛な設定ではないと。
マヒト:そうですね。
町田:何者かによって通告される設定じゃないですか? この通告してくる相手は非常に政治的な存在だと思うんだけど、重低音に苛まれながらも、なんとか生きていこうとする姿に僕は感動しました。「いろは」の存在と、生きているのか生きてないのかさえわからない「老人」の存在。一方で「ましろ」と「光太」は不道徳性を抱えている。が、時々突発的に道徳的な行いをする。他者に対するイマジネーションを働かせて救おうとするし、そのことによって話が展開する。一人の人間が不道徳なことを行ないつつ、善行をしようとすると、普通はそのキャラクターが崩壊して上手くいかないんですよ。「こいつ不道徳なはずだったのに、なんでいいことしてるねん」って客がついてこれなくなる。この小説はそこが破綻することなく、最後は重低音が響きながらも何者かからギフトが送られてくる。それは取るに足らない日常の記憶の断片なんだろうけど、救いのようなものが、今の現実を生きている中での実感として描かれている。
マヒト:ひとつのキャラクターのなかに、善悪みたいなものが混在している感覚がずっとあって。神様と仏様、天使と悪魔とか、それらが登場人物のなかにあるし、重低音としてのボトムにあるというか。いわゆる良い人悪い人、自分もステレオタイプ的に評価することはあるんだけど、出会ったタイミングとか角度や環境が変われば、評価は変わるわけで。今後はさらに周りの環境が壊れて、もっとカテゴライズできなくなっていく気がしている。混在が許される時代が来る気がしています。
町田:善悪に割り切らず、共通に認識するような。
マヒト:カリスマとかヒーローとか、ひとつの強さだけでは隙が生まれるのではないでしょうか。カリスマ的な役割はこの先も存在し続けても、絶対的な存在とはちょっとずれていくような気がしています。
町田:これは細かい話だけど、僕が最初にいいなと思ったのは、視力の良さなんですよ。目が良い。例えば、バンドのメンバーで居酒屋に行きました、アジの干物とかホッケとか頼んで食べるときに、みんなで一斉につつくからバラバラになるわけです。その干物のことを書いているときに、バラバラになった干物を自分自身と重ね合わせて書いているんです。
マヒト:意識してなかった。
町田:意識してないでしょ、これが文学なんです。狙ってそれをやるのは技術なんです。意識して書いたら、臭みが出てくる。何気ない日常がギフトとして立ち上がってくるラストは、目の良さから生まれているんです。
マヒト:重低音、つまり死や終焉からどうやったら逃げられるのかな? って思っているんだけど、全然答えが出ない。一方で、知りすぎても神様になっちゃうわけで、そこに到達しないように時間を稼ぎたい気持ちもあります。突き抜け過ぎないためには、頭で考えるだけではなく、自分が体験したことを中心に考えるくらいの速度がちょうど良いかもなと思う部分もあるんです。
町田:僕も先日、『小説幻冬』の連載最終回で同じようなことを書きました。どうせ死はやってくるわけだから、どうやってそこに意識が行かないかを考えるという内容です。俺が60年かかって書いていることを君は30年で感じてるわけでしょ。恐ろしいやつだな(笑)。答えは出ないけど、考える必要があるんでしょうね。必要っていうか、考えてしまいますよね。
気持ちと行動の間にある「揺れ」を凝視することが表現
マヒト:小説はフィクション、映画はノンフィクションって区分けしていると思うんですけど、自分の中ではあまり区別はなくて、そもそもマヒトゥ・ザ・ピーポーは俺とは違う人格というか、ピエロっぽいというか……。俳優ではないけど、実は演じてる感覚があるんです。そういう意味では小説と変わらない体験なんですよね。
町田:おっしゃっている意味は良く分かります。小説を書くときは、自分の体験ではないことを登場人物に語ってもらっているわけです。反面、書いている最中はまさしくその人物になることで、自らも体験している。作者だからといってコントロールしているわけではなく、まさにその小説の現実を文章で体験しているから、そういった意味で「同じ」なんですよね。
マヒト:青臭い言い方かもしれませんが、読者にとって小説がそれぞれ自分のこととして感じられるように、この映画(『Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN』)を観た人にも、俺らの体験を自分のこととして感じてもらえるといいなあと。もちろん感じ方はそれぞれ違うと思いますし。
町田:アメリカツアーで知り合ったスタッフやお客さんに交渉してその日の宿泊場所を確保する過程で、偶然ネイティブ・アメリカンの方の家に泊まることになるわけです。その翌日、彼らの集会所を訪れ、その差別の現実に葛藤するわけですが、実は映画の中にもそこに至るまでの前段階がありますよね。簡単に言えば、音楽を通じてお互いの理解を深める姿を描いた前半に対して、それでも超えられない壁を映し出したのが後半。もちろん、そこには歴史や制度が横たわっているわけですが、そもそも人間が抱える業のようなものも前提としてあるわけで、人と人が争う、優勝劣敗の原則のようなものがある。そこで音楽の無力さにぶつかって煩悶する姿が監督のカメラから映し出されていますが、この映画を観ることで、ある種の触媒となってその感覚を感じてほしい、という意味でしょうか。
マヒト:いや、その通りです。町田さん、優しいなあ……。俺が上手く言えなかった的確な解説、ありがとうございます。
町田:一応60年生きてますから(笑)。
マヒト:触媒って表現すると無色透明な存在のイメージがあるんですけど、全然そんなことはなくて、ちゃんと色や形もあって血が流せるというか。この映画を観て一番面白いのは、今でも傷ついた感覚は自分のなかに残っているんですが、一方で自分ではない人物が映っているとしか思えない感じですかね。ちょっと難しい感覚なんですけど。
町田:それは常にある感覚なんですか? 映画を観終わって感じたことなんですか?
マヒト:感情と行動が伴わない感覚はよくあります。お腹が減ってご飯を食べるように、気持ちと行動が連動するのが普通の感覚、普通の人間だと思いますが、そうじゃないことがたまにある気がします。その度合いが酷過ぎると、いわゆる「マトモじゃない人」になるんでしょうけど。自分で決めているはずなのに、実は決められている現実が多い世の中で、最近鏡を見ることにハマってまして……。鏡に映った自分が他人に見えてしまうんですよね。ナルシストという感覚ではなくて、「何者だろう、こいつは。」という気持ちで鏡を見ています。実は小学校1年のとき、両親の結婚指輪をドブに捨ててしまったことがあります。その夜、両親が指輪が無いことに気付いて喧嘩したんですが、その状況でも何も感じられず……。そういうことってありますよね?
町田:小学1年ということは、いわゆる世の中のルールや規範が理解できていない時期かとは思います。大人でも、「バンドがやりたい!」って始めたのに、いざ練習となると「やっぱだるいわ、やめとくわ。」とか。大人なら「でもやるって言ったし、顔でも出すか。」と自分の発言、行動、気持ちを合わせるわけですが、小学1年、あるいは未熟なバンドマンにその感覚は薄いでしょうね。
マヒト:気持ちと行動が綺麗に合わさって上手く回るのは効率的かもしれないけど、そうじゃない場合もあるよな、という感覚は大事にしたくて。明確な答えではなく、気持ちと行動の間にある曖昧な「揺れ」に興味があるんだと思います。
町田:その「揺れ」を凝視することが、表現することだと思います。それを無かったことにして、整理したものだけを作ってもつまらないですよね。この映画も、揺れや矛盾を感じつつ帰国し、そこからフェスに繋がっていくわけですが、(GEZAN主宰のレーベル〈十三月〉が主催する)フェスの「全感覚祭」というタイトルとも繋がっていて、つまり「人それぞれが自分の感覚で考えるしかない」という意味なんですよね。ひとつの解、処方箋を用意するわけではなく、ひとつの例を示してるわけです。それがこの映画の文脈なんだと思いました。
マヒト:孤独であること、自分自身であることが、イコール全感覚祭やこの小説なんですが、心と頭で感じるだけではなく、もっとダイレクトに体験することを大切にしたいなという気持ちはあります。時に自分の発言や文章が政治的な文脈で受け止められることもあるけれど、政治にもいろんな意味合い、レイヤーがあると思っています。
町田:政治というのは、ギフトをもたらす者、もしくは破壊者と上手く付き合うためのテクニックだと思います。言ってしまうと政治=宗教的でもある。小説で例えるなら、自分のコミュニティの外にはギフトをもたらす者=神、もしくは破壊者しかなくて、実はどちらも同じ存在のことが多い。世界の終焉を告げるのは、人間であり、破壊者であり、政治の側であることが多いので、そこを倒さないといけないという図式があります。この映画には「パンク」という言葉が頻繁に出てきますが、パンクは単純に敵と味方に区別しがちかもしれません。実際はそんなことはなくて、自分のなかにも破壊者の要素も光をもたらす要素も両方あるのに、混然一体となって外とか敵とか区別してしまうのは危ないな、と昔から思っていました。
マヒト:よくわかります。政治という言葉には、本来個人が持つべきもの、考えを剥奪するイメージもありますよね。ただ、政治という意味合いは人それぞれだし、繰り返しになりますが、この映画を観た人が自分の感覚で何かしら感じて、考えて、体験してくれたら嬉しいなと思っています。
INFORMATION
映画『Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN』
製作:十三月|プロデューサー:カンパニー松尾
監督:神谷亮佑|音楽:マヒトゥ・ザ・ピーポー
主演:GEZAN〈マヒトゥ・ザ・ピーポー、イーグル・タカ、カルロス尾崎、 石原ロスカル〉、神谷亮佑
出演:青葉市子、テニスコーツ、原田郁子、THE NOVEMBERS、行松陽介、UC EAST、imai、踊ってばかりの国、HIMO、呂布カルマ、やっほー 他
配給/宣伝:SPACE SHOWER FILMS
©2019 十三月 / SPACE SHOWER FILMS
<公開決定劇場>
6/21(金)~7/4(木)東京・シネマート新宿
6/28(金)~7/11(木)大阪・シネマート心斎橋
7/5(金)~7/18(木)東京・渋谷 HUMAX シネマ
7/13(土)~ 愛知・名古屋シネマテーク
7/19(金)~8/1(木)東京・UPLINK吉祥寺
7/27(土)~8/9(金)京都・出町座
8/3(土)~8/16(金)神奈川・横浜シネマリン
8/8(木)~8/21(水)広島・横川シネマ
10/26(土)〜11/8(金)栃木・宇都宮ヒカリ座
上映日未定 兵庫・元町映画館
以降、全国順次公開
公式 HP:gezan-film.com
小説『銀河で一番静かな革命』
著者:マヒトゥ・ザ・ピーポー
発売元:幻冬舎|価格:1,500円(税別)
発売日:2019年5月23日
単行本|240ページ