Licaxxx × 荒田洸(WONK)「注文の多い晩餐会」 vol.12 〜中井圭の巻〜

DJを軸にマルチに活躍するLicaxxxとWONKのリーダー/ドラムスである荒田洸の二人が、リスペクトする人を迎える鼎談連載。第十二回には、映画解説者の中井圭を迎えて、濃厚な映画談義が繰り広げられた。ちょうど2021年アカデミー賞が開催される直前、4月某日に行われた会話だが予想は見事的中。今日これからでも映画館で映画が観たくなってくる、充実の内容をどうぞ。
EYESCREAM誌面には載りきらなかった部分も含めて完全版でお届けします。

映画の役割は社会を前進させること

荒田:いま注目の映画は何ですか?

中井:やはり『ノマドランド』ですね。今回のアカデミー賞で作品賞、監督賞を獲ります。おそらくこの先のアメリカはクロエ・ジャオ監督の天下になる。

Licaxxx:マーベルの次回作『エターナルズ』もクロエ・ジャオが撮りましたもんね。

中井:そう。アカデミー賞ってそもそも最も優れた作品を選んでいるわけじゃないんですよね。ノミネート作品はどれも相当レベルが高いから、そのなかでじゃあ何が選ばれるかとなったら、時代がいま何を要請しているのかが投影される。いまアメリカがどういう課題を抱えていて、どういうことを世界に訴えたいのか。だから今年は女性監督や女性に光が当てられる作品が評価されるだろうなと。とくに今回のアカデミー賞の監督賞ってノミネート5人中2人が女性監督。こういう状況は異例なんですよ。そうするとどちらかが獲るだろうという予想にはなって、エメラルド・フェネルとクロエ・ジャオのどっちになるかというとたぶんアジア系のクロエ・ジャオだろうと。

荒田:アカデミー賞から歴史を勉強できるんですね。

中井:完全にそうです。その時々の時代を投影する。

Licaxxx:そういう楽しみ方なんだ。

中井:映画の機能として“社会を前進させること”というのがあるけど、そこをちゃんと考えているのがアメリカ映画のすごいところなんですよね。

Licaxxx:女性監督ってなんでそんなに少ないんですか?

中井:もともと映画産業自体、マチズモ的な文化が脈々とあったというのはある。でも、これじゃよくないよねというのがようやく認知されはじめたところ。

Licaxxx:日本だとまだまだ少ないですよね。

中井:そうですね。『あのこは貴族』の岨手由貴子監督や松本花奈監督も出てきたけど本当にずっと男性社会だった。これまでに大九明子さんなども活躍されてきましたけど、最近になって増えていますね。

Licaxxx:最近観た、西川美和監督の『すばらしき世界』も映画として機能しているなと感じた。

中井:そうですね。その作品を使って社会になにを訴えようとしているのか。アカデミー賞はとくにそこが大事になってくる。

荒田:アカデミー賞を獲るのは世相とのリンクだとして、でもそのムーブが来る前から作っているわけですよね。

Licaxxx:二年も三年も先を読まないといけない。

中井:アーティストの二人にも聞きたいんですけど、ちょっと前に考えていたことが時代に合致するときってあるじゃないですか。

Licaxxx・荒田:ああー。はい。

中井:映画監督の素質のひとつってそこだと思う。世間がそこに反応するよりずっと前に「なんかこれ気になるな」みたいなものがあって、映画を作り始めると最低でも三、四年かかるけど、出来上がったときにそれがちょうど時代に合致する。特に、世界の優れた監督って見ているところが違う。

言語に依存する文化と画面に依存する文化という違い

荒田:めっちゃ素人意見なんですけど、アメリカの絵と日本の絵って全然違うのはなぜですか? 予算の問題だったり?

中井:いろいろな要因はあると思います。数年前に『京都国際学生映画祭』という世界中の学生が応募してくる映画祭の審査員をしたときに、日本国内の学生のものと海外から送られてきたもので根本的に違ったのはルックなんですよね。海外のほうがルックめちゃくちゃよかったんですよ。これは僕の仮説ですけど、日本って鎖国もあったし、基本的には単一人種が圧倒的多数の国じゃないですか。だから日本中どこでも同じ言語が通用するけど、たとえばヨーロッパって大陸としてはつながっているけど言語はバラバラだから、どこでも通用するわけじゃない。さらに移動や侵略の歴史のなかで人種も混ざっていくし言語的にも揺らいでいて、そうなってくると絵で言語を超えてくる。メロディーとかもそうだと思うんですけど、その場合って言語が不必要なわけじゃないですか。だから、セリフに依存している文化と画面に依存している文化という違いがあるんじゃないかと。そう考えたときに日本映画のルックってなぜ心許ないのかというと、もちろんいいルックを作る監督さんもたくさんいるんですけど、とはいえそもそも言語で説明できる、というのは脈々とあるんじゃないかなと思いますね。

Licaxxx:それはありそう。

中井:昔の日本はそんなことなかった。1930年〜50年代の日本映画は圧倒的なポジションにあった。スティーヴン・スピルバーグをはじめ現代の巨匠たちが憧れていたのは日本映画だったので。みんな、黒澤(明)や溝口(健二)、小津(安二郎)、成瀬(巳喜男)に憧れを持っていた。

荒田:小津の『東京物語』のルックはめっちゃ好きですね。

中井:小津にしても黒澤にしても、画面に対するこだわりがめちゃくちゃあった。昔の日本映画が、お金も時間も労力もいまよりかけられる側面もあったと思うんですけど。デヴィッド・フィンチャーだったかな、8Kのカメラで撮っているんですよ。いまの平均的な上映時の解像度ってだいたい2Kなんですけど、8Kで撮るとものすごく高解像度になる。そうなると、「この絵はこの画角で撮ります」と決め打ちしなくても、広い画角で撮っておいて、後でトリミングして絵を作り込んでいくということができるんですよね。

感情や場が拡張されていく音楽

Licaxxx:今度、自主制作映画の劇伴をやることになって。映画音楽のことも聞きたいです。

中井:時代に応じてピンとくるものは変わってくるとは思うんですけど、最近は単体では聴けないもののほうが好きですね。

Licaxxx:映画ありきの、そのための音楽。

中井:そうそう。80〜90年代だとメロディーが強くてピンとくるものが多い。『スター・ウォーズ』も『インディ・ジョーンズ』も『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も。でも、いまのサントラでメロディーでピンとくるものってあまりないんじゃないですかね。

荒田:たしかに。なんで最近はメロディーがはっきりしたものがないんですかね。

Licaxxx:邪魔だって気づいたんじゃないの?

中井:映画がそもそも単純化していないというのはあると思う。昔の映画っていまと比べるとストーリーもモチーフももう少しシンプルでしたよね。いまって構造が複雑でもっとグラデーションが大きい。最近だと『ジョーカー』の音楽も手がけたヒドゥル・グドナドッティルは素晴らしいですよ。完全に埋没しているけど、その音楽があることによって感情や場が拡張されていくのをすごく感じますね。クリストファー・ノーラン作品でお馴染みのハンス・ジマーよりも引き算がうまい。

Licaxxx・荒田:聴いてみます。

中井:ここ数年のサントラってそういう意味ではパーツをすごく意識しているのかなというのは感じる。映画の主体って何だろうというのを考えたときに、たまに俳優さんが妙に目立ったりもするんですけど、個人的にそれは歪だなと感じてしまう。その俳優の演技を観せたいんじゃなくて映画を観せたいわけだから。主体は映画なんですよ。逆にいうと埋没することが大事。

中井:ヒドゥル・グドナドッティルの話に戻ると、映画『チェルノブイリ』のサントラを作るとき、実際にチェルノブイリに音を録音しに行っているんですよね。ただ、その音を聴いても「これが原発の音か~」とはわからないじゃないですか。

Licaxxx:そうですよね。

中井:でも、そこの本物を入れ込もうと思う意志みたいなのは重要だと思っていて。クロエ・ジャオがなぜこんなに評価されているかというのは、そこも関係していると思っている。クロエ・ジャオは『ノマドランド』もそうですけど、エンドロールを見てもらえばわかるんですけど、役名と名前が一致してるんですよ。

荒田:えっ?

Licaxxx:出てくるノマドたちが本当の人なんですよね。リアルガチ。

中井:そう。もともと撮影に入る前に、クロエ・ジャオが実際に何ヶ月かノマド生活をしたみたいで。それには(主演の)フランシス・マクドーマンドも連れて行ってるんですけど、そこで出会ったノマドたちにそのまま出てもらっているんですよね。クロエ・ジャオはそういう作り方をしている。映画『ザ・ライダー』のときも実際のカウボーイたちが、その家族と一緒に出てくる。でも、言われないと気づかないんですよね。そのレベルで作品世界を生きている。いい役者って、よく言われるのは「その作品世界を生きている」ということなんですけど、『ノマドランド』は、もともとその世界に生きていて、そこに映画がお邪魔します、って切り取らせてもらっている。演じることで生きている人と、すでに住んでいて生きている人だと、後者のほうがリアリティーはあるんだろうなと思いますね。もちろんリアリティーっていろんな要件があるけど、そのひとつの形として、本物には叶わないというリアリティーがある。クロエ・ジャオは、おそらく演じるという行為のなかに本物が存在するという意味をわかっている。

新作の『エターナルズ』はもう撮り終わってますけど、おそらくこれまでのマーベル作品とはまったく違うはずなんですよ。聞いている話だと、クロエ・ジャオらしくロケもかなり多いみたいですよ。明らかにムードが違います。

Licaxxx:ヤバッ。

中井:アメリカ映画界がすごいのはそういうところなんですよ。だってね、『ザ・ライダー』を観て、『ノマドランド』を観て、この監督に超大作フェーズ4の作品を任せるかと考えると、あまりにも作家性が強くて怖いじゃないですか。でもアメリカのクリエイティブの現場ってそうなんですよ。そういうこと平気でやる。それはクリエイティブに対する信用度の違い。根本的にものづくりをどこまで信用しているかどうか。日本だと保険がほしいじゃないですか。

荒田:「売れてるからこの人に頼もう」ってなりますよね。

中井:そうそう、売れてるし、大作やったことあるし、この人なら大丈夫だろうと、変なことにならないだろう、というサイズ感で収めようとするんだけど、マーベルとかだと思い切ったカードを切ってくる。

荒田:それかなりヤバいですね。

伏線にこだわりすぎ問題

中井:最近の映画の傾向として、みんな伏線にこだわりすぎ問題がある。これがあるから評価の軸がおかしなことになっている。

Licaxxx:主線で勝負しろよと。

中井:そうなんですよ。「実はここにはこういった意味がありまして」だとか、記号的に埋め込まれている作品が多い。そういった楽しみ方ももちろんあるけど、そこのみで論じられるべきではない。芸術ってそんな論理的に分解できるものじゃないはず。みんな理由を求めすぎている。

Licaxxx:深読みは私も結構やっちゃいがちかも。

中井:これはこういう意図があって、ということを腹のなかに持っておくと安心するんですよ。でもそう定義付けることによって作品自体の可能性を殺してないか、楽しみ方を狭めてしまってないか、というのは危惧している。

映画におけるポリティカル・コレクトネスについては、社会を前進させるという映画の役割として僕も重要だと考えていて、作品を観るときや論じるときにいつも強く意識しています。ただ、例えばジェンダーの問題だったり人種の問題、差別や格差、いろいろな現代社会の課題があって、作品がその要素を含んでいるかどうかが極端に前景化して、作品の良し悪しの決定に直結しているように最近は感じる。「ポリティカル・コレクトネスのスタンプラリー化」が進んでいるというか、押さえるべきいくつかを押さえていないと、作品がきちんと評価されないということが傾向としてある。でもそうなってくると、作品に対する評価軸が単純化していく。評価軸が単純化したりシステム化してきた結果、「良し悪しって人それぞれ」を許さない環境になりはじめているなと思っていて、そこには懸念を持っています。それはさっき話した伏線にこだわりすぎ問題と同じというか。

Licaxxx:映画の話、面白すぎてまだ三倍くらい聞きたい! 今日はありがとうございます。これ聞いたあとで映画を観たらさらに面白いですね。


中井圭

俳優の斎藤工、板谷由夏のふたりがMCを担当する映画紹介番組「映画工房」にレギュラー出演中。毎週金曜21:30~WOWOWプライムで放送、WOWOWオンデマンドで配信中。
@nakaikei


荒田 洸

“エクスペリメンタル・ソウル・バンド”を標榜するWONKのバンドリーダーであり、ドラムスを担当。
@hikaru_pxr


Licaxxx

DJを軸にビートメイカー、エディター、ラジオパーソナリティーなどさまざまに表現する新世代のマルチアーティスト。
@licaxxx