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貝印によるグルーミングツールブランドAUGERの掲げる「Kiss our humanity – 心に触れて“整える”時間」を生活に浸透させ、“自分と向き合う”ことで生まれる、新たな創造と可能性。その創造性をEYESCREAMがアーティストにぶつけ、自由に作品を構築してもらうシリーズ企画「AUGER ART ACTION」。
第5弾は匿名性の高い“存在”が画面に佇んでいる絵画で知られるアーティスト、オートモアイによるドローイング作品と油彩作品となる。日常の瞬間を切り取っていながら、見入るほどにその前後の物語が立ち現れてくる、じっくりと向き合って鑑賞してほしい絵画となっている。作家のアトリエで撮影した写真とインタビューをここに記録しよう。
「現代絵画」として、時代を更新していくべきだと思っている
ーまずは、AUGERをテーマに描いていただいた作品のことから聞ければと思います。
(上にあるドローイング作品で)描いたのは、AUGERのアイテムから想起させるもの。ヒゲを剃るシーン、ツメを切るところ。貝印だから貝殻。ヒゲを剃るときに泡立てるための石鹸があって、その左にあるヤギの水平な目は、刃物の水平なイメージとも重なっている。この2つは絵としても似ている気がしています。ツメキリは、洗面台やキッチンあたりに置かれていて、一緒に置いている写真立てには、下の石鹸の写真が入っている。
右上の絵は、プールの中で貝殻を拾って鼻にくっつけている絵なのですが、貝殻はイモガイ類のもの。イモガイ類は矢舌という毒針で狩りをする珍しい貝なのですが、道具を使う貝というのがおもしろいなと。古くから貝殻は人間の道具として使われてきましたが、人間が道具にする貝が道具を使っている。
ー中央に、縦に描かれている植物はどういったつながりですか?
葉っぱで指が切れることもあるので刃物っぽいなと。あと、白鳥はAUGERのカミソリのヘッド部分がカクカク動くところから連想しています。AUGERは、肌まわりをケアするものだから、人間の皮膚や生身と、それ以外のイメージとしての動物や生物を描きたかった。その対比自体も、肌と刃物の関係性に近い気がします。全体として、直線的で、そのなかに流線のあるものをモチーフに選んでいて、それはAUGERのデザインにも通じる部分ですね。そうやって、それぞれ直接的に関係するものではないけど、絵とよく向き合ってよく考えると意味や印象の似通ったものがランダムに配置されている絵になっています。
ー雑誌EYESCREAM No.184の裏表紙にもなっている油彩作品は、ヒゲを剃っているシーンです。これまでは顔のないヒトを描くことが多かったなか、この作品もそうですが、最近のオートモアイさんの作品では目が描き込まれることも増えています。
これまでは口だけが描かれた人間を描いてきたけど、よく考えたら、いまはみんなマスクをしている。となると、時代性がないことになる。私がやっているのは「現代絵画」。単に絵画でもないし、現代美術でもない。「現代絵画」は、いま起きていることを描かないといけないし、新しい絵の具を使わないといけない。だから最近は蛍光色の絵の具を使ったりもします。昔の絵の具にはあまりなかった色だから。そうやって時代を更新していくべきだと思っています。
ー実際にAUGERのアイテムを使用してみてどうでしたか。
ツメキリ(M Revolver)をよく使っています。ツメが丈夫だからなかなか思うように切れないのですが、このツメキリは力を入れなくてもきれいに切れるのがいいですね。
ー自身を「整える」ための日々のルーティーンはあったりしますか?
うーーん。特にないですね。毎日、同じことをすることがどうしてもできない。過集中のタイプなので、制作をしているときは徹夜続きもよくあって、となると日々のルーティーンができない。整いのない人生ですね(笑)。怠惰、堕落という言葉が似合う気がします。でも、最近は自分の見た目をわりと好きになろうかなという気持ちはあるので、ツメをちゃんと切るとかは意識しているかもしれません。
いまここに存在しないものを立ち上がらせる、その行為に霊性が宿る
ー以前、「霊性は言葉(テキスト)と絵画のみが表すことができる」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。
霊性というのは、すごく抽象的なものではあるけれど、ニュアンスとしてどの国のどんな人でもなんとなくわかるものというか。文章や絵画を単に見るだけではなく、視覚情報として頭に入れて読み解いていくと浮かび上がってくるもの、というイメージで霊性という言葉を私は使っています。テキストの場合、たとえば歴史について書かれている研究論文があったとして、過去のことを文章にしたものを現代の人が読むことって、イタコみたいなものだと思っていて。その時代の人たちはもう死んでいるけれど、文章にすることによってどの時間軸にも行くことができる。絵画もそういうものだと思っていて、私たちは何百年前の絵画を観ることができる。そこに描かれている人間はいま生きているわけではないけれど、でもそこに常にアクセスできる。その行為が霊性だと思っている。
ー音楽もまた、霊性が宿るのではと思っていたのですが。
音楽や映像も霊性を表現することはできると思いますが、私の中では少し違う。音楽って生身の人間が生きてライブでやっていることで、そういった身体表現は霊性とあまり結びつかない。テキストと絵画と限定しているのは、視覚として立ち現れることが重要で、しかもそれが流動的でないものだから。
本を読むことと壁にかかった絵を観るという行為は、すごく近いと思っていて。生者が本を読んでいる状態だとしたら、テキストに書かれている人もテキストを書いた人も限りなく死者に近い存在だなと思うし、絵画に対しても私はそう思う。あと、文章には主題と副題があるわけじゃないですか。文章に書かれているものから、作者が本当に書きたいものが浮かび上がってくる。それは絵画も同じ。
絵画は、自分が頭でイメージしたものをキャンバスにおこしてみんなが観られるようにする。テキストもそれを言葉に置き換えている。頭でイメージしたことを明確に人に伝える場合に、この2つの方法しかないと思うんですよ。いまここに存在しないものを立ち上がらせること、その行為そのものに霊性が宿る。
自分のことはあまりよくわからないままでいい
ーオートモアイさんにとって、作品制作と「自分と向き合う」ことの関係性を探りたいです。
私は自分のパーソナルな部分を描いているわけではなくて。社会で起こっている問題や現象、人との会話、生活のなかでの出来事、そういったものの反射から自分を認識しています。なので、絵を描いていることは反射にはならない。私は展覧会ごとにテーマを決めるのですが、そのための資料集めや画題を練りこむことに時間をかけるので、制作に取り掛かるまでが長い。なんとなくキャンバスに向かって描く、ということが苦手で。悩んだり迷ったりすることが苦手というか。画題が決まれば、描いているときはなにも考えていません。絵を描くって、普通に集中することだから、あまりたくさん考えごとをしながらできることではない。縫い物をしているときって、何も考えないじゃないですか。考えごとをしていたら指を怪我してしまうかもしれないし、間違えて縫ってしまうかもしれない。それと近いというか。絵を描きながら考えられる人って器用だなと思う。
ーただ、絵そのものに対峙していると。
絵を描いているときは、自分のことを考えなくて済むからすごくラク。資料集めや画題を練ることに時間がかかって絵があまり描けないときってストレスでもあるから。人と会って話すことも好きだけど、人と会うって自分を見ていることでもあるし、考えてないといけないから疲れたりもする。絵を描くってゲームをやっていることにちょっと近い。目的があって、それを達成させるためにタスクを処理していく。やることが決まっているから、わりと考えなくて済む。
ーでは、「自分と向き合う」のはどういったときですか?
自分と向き合って、自分のことを見るのはたいへんな作業で。見たくないところが見えてきてしまうから、あまり見たくない。私が社会性を帯びた作品を描くのは、あまり自分のことに自覚を持ちたくないからかもしれません。
ー自我に縛られたくない?
誰しも自己矛盾を抱えているものなのに、自分はこういう人間だ、と決めつけてしまうのは危ないと思うから。ダメなときにダメって人に指摘されて、それに順応できるほうがいい。生きていて、「自分はこうだ」と思う瞬間は、本当はないんだろうなと思う。自分のことはあまりよくわからないままでいいかなと思っています。
ー今後、表現していきたいことを最後に聞かせてください。
少し忙しすぎたので、もう少し勉強する時間を増やして、絵画以外でも幅を広げられるようにしたい。いまは東アジアのフェミニズムに興味があるのですが、それを絵画で表現するのは違うなとも思っていて。テキストを書けるように勉強したい。絵画とテキストで作品がつくれるようになれるといいなと思っています。