渋谷編:ウッパ・ネギーニョ①長谷川町蔵 著

長谷川町蔵「インナー・シティ・ブルース」新連載小説がスタート。
毎回、ある街をテーマに物語が展開する連作短編シリーズ。 第1回の舞台は、渋谷。
初回は前編・後編2話連続スペシャルでお届けします。

渋谷編の主人公は、宇田川町でレコード・ショップを営む、久作。
常連の女の子、藤野恋(通称:恋さん)は音楽に一切興味はないのに、なぜかほかの常連客とも仲が良い。
店から外に出たがらない久作を、ある日恋さんが渋谷の街へと連れ出すと……。

「この調子だと今日はもう誰も来ないって。散歩に出ようよ」
ピチカート・ファイヴ「ワールド・スタンダード」から繋いだスライ&ザ・ファミリー・ストーン「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」のあとに小坂忠「ほうろう」をかけようかどうしようかターンテーブルの前で迷っていると、さっきからずっと退屈そうにしていた恋さんがぼくに話しかけてきた。

たしかに開店してからもう三時間近く経っているのに、客は彼女しかいない。でもぼくは八五〇〇枚のアナログレコードに護られたこの空間から外に出たくなかった。

グリーン地に黄色いロゴの袋がトレードマークの、ぼくのレコード・ショップ「Wild Honeybee Records」は、渋谷区宇田川町の通称レコード・ヴァレーの中心に立つマンション、ノア渋谷の313号室にある。大学を出てすぐこの店を開いてからもう二年が経った。

店を始めたときは勝手がわからなかったけど、ジョージ・ガーシュウィンからジョージ・マイケルまで、歴史順にジャンル分けした棚が評判を呼んでだんだん客がやってくるようになった。今では同じマンションのD.M.S.やStrangelove RECORDSやplanet Recordsといったライバルと一緒に、この街を盛り上げているプライドがちょっとだけある。

そんな渋谷を愛してやまないぼくではあったけど、ショップには駒場から自転車で通っていたせいで、長いこと渋谷駅は使っていなかった。恋さんはいつもそれをからかっていて、今日は来てからずっと、ぼくを外に連れ出したがっていた。

この店に最近やってくるようになった恋さんこと藤野恋は、今では常連客といえる。専門学校1年生と言っていたから年令は十九歳とかそこらだろう。生まれも育ちも町田市だけど、通学の乗換駅になって渋谷に遊びにくるようになったという。歳が若い客自体は珍しくはない。オーナーのぼく自身がまだ二六歳ということもあって、うちの客層はかなり若かったし、私立校に通う女子高生だってたまにやってきた。

でも恋さんはそうした客とは雰囲気がまるで違う。うちにやってくる若い女の子といえばX-girlのチビTが制服みたいだったけど、彼女はいつもダボっとしたネルシャツの上に虎の刺繍がほどこされた悪趣味なスカジャンなんかを羽織っていて、そこに雑な感じで茶色に染められた髪をバサッと垂らしていた。まるで暴走族の女子かなんかである。ぼくが「ちゃん」付けではなく「さん」と呼ぶようになったのも、むこうから「久作くん」呼ばわりされるようになったのも、そんな彼女のルックスが原因といえる。

それよりさらに不思議なことがあった。彼女はうちが扱っている音楽に一切興味がないのだ。ここで買い物をしたことは一度も無いし、ぼくがこうしてせっせとかけているキラー・チューンにも全く反応しない。ちょっと前に好きなジャンルを訊いたら、「EDMとKポップ」とよくわからないジャンル名が返ってきた。それなのに他の常連客と世間話で盛り上がって、そのまま一緒に店外に遊びにいってしまうこともしょっちゅうだ。彼女はここで扱われている音楽よりもここに通う人間の方に関心を持っているみたいだった。

 「恋ちゃんのあの虎のスカジャン、グッチなんだって。実家が凄いお金持ちかヤバイところか、もしくはその両方なんじゃないかな」

そう教えてくれたのは、ここでしっかり買い物をしてくれる古い常連のマリさんだ。編集プロダクションで働いている彼女は、いつもBiG miniを持ち歩いていて渋谷の街を切り取っている。そしてアナログ・フリークでもあった。

金曜の深夜になるとこの店は、床の中央に置いたエサ箱を左右にどかして即席のクラブへと変身し、お気に入りのレコードを常連が流しあうシークレット・パーティが開かれるのだが、マリさんはその常連で、7インチオンリーでイエイエやモータウンをかけるスタイルが人気を博していた。レギュラーDJは彼女とぼく、美容師としての収入をすべてソフトロックのレア盤に注ぎ込んでいる薮っち、ハウス命の不良外国人ミカエル、そしてYellowのフリーパスを貼りつけたスケボーに乗って何処からともなくやってくる杉浦の五人だ。

若いミュージック・ラヴァーで満員のパーティは、いつも小沢健二「天気読み」からスティーヴィー・ワンダー「くよくよするなよ」という流れでヒートアップして、アライヴ!「スキンド・レ・レ」で皆が踊りはじめ、エドゥ・ロボの「ウッパ・ネギーニョ」でピークを迎えた。その曲のブレイク部分になると、マリさんを筆頭とするぼくら仲間はビートに合わせて「パパパ・パンパンパンパン・パパパン」と両手を打ち鳴らすのだった。その時、いつもマリさんと目があった。その輝かしい瞬間、ぼくはこの空間を作って良かったと心の底から思うのだった。

おそらくとぼくとマリさんは両想いなのだろう。でも男女の面倒臭い感じになるよりも、音楽談義をしていた方が幸せなのだという暗黙の了解のせいで、ふたりの距離が縮まることはいっこうになかったから、ほかの常連たちはヤキモキしていた。でもどういうわけかそんな彼女たちがここ数日、姿を現さない。 

この街では毎月のように新しいレコード・ショップがオープンする。もしかするとぼくが知らないうちに、彼女たちが夢中になるようなクールなショップが新しくオープンしたのかもしれない。そう考えると気が気でなくなってきた。
「じゃあ少しだけ出かけてみようかな」

かくしてパーカーを着込んだぼくと恋さんは、鈍い音が鳴るエレベーターに乗って、早春のレコード・ヴァレーへと降り立ったのだった。ここはレコード・ショップのマジックキングダムだ。向かって左側のビル一階には小文字の「m」が目印のマンハッタン・レコードが入っていて、狭い坂の上にあるシスコ本店とヒップホップやR&Bの12インチの熾烈な価格競争を繰り広げている。そのシスコは向かいのビルにレゲエ、スタジオ・パルコにロックの専門ショップを出して、老舗の貫禄を誇示していた。すぐ目の前のビルの五階に入っているのはギターポップやネオアコが充実しているZESTだ。ぼくが尊敬してやまないショップである。
「えーと、言っとくけど今回はレコード・ショップ巡りじゃないから」

ぼくの気持ちを読んだのか恋さんはそう言うと、先にスタスタと歩き出した。だけど同業者としては、どうしても他のショップが気になってしまう。そうこうしている間にも、グレイトフル・デッドが異様に充実しているIKO IKO、アメリカ盤の再発CDが安いウルトラ3の前を通り過ぎてしまった。

もし恋さんと一緒じゃなかったら、ぼくはきっと和隆ビルを地下二階まで駆け下りて、店内でハウスが爆音で流れているダンスミュージックレコードで新譜を買い漁り、BEAMを四階まで駆け上がって、巨大なレコファンを埋め尽くすCDの山の中に宝物が埋まっていないか捜索を開始しただろう。

だけど恋さんは長い手足をぶらぶらさせながら、まるでそこに何もないかのようにそうしたビルを通り過ぎて、交番の先で右に曲がって細い路地へと入ってしまう。でもここは渋谷だ。彼女の歩く先々にはレコード・ショップが待ち構えている。

たとえば路地の入り口の左側のビル。あそこは上から下まですべてのフロアがディスクユニオンだ。二階のサイコビリーの品揃えはいったい誰が買うのかと思うくらいディープだし、四階のテクノコーナーはこの街で今一番ヒップなコーナーだ。右奥に立つ西武系のファッション・ビルのクアトロには、一階から三階までWAVEが入っている。渋谷系ど真ん中の一階以上に六本木WAVEの遺伝子を感じさせる三階の現代音楽のセレクトの方をぼくは評価していた。

そしてぼくらが歩く路地の真正面に鎮座するこの街の王者こそが、HMV SHIBUYAだ。ここのカリスマ店長だった太田さんがセレクトしたShibuya Recommendation、通称太田コーナーこそが渋谷系という概念の生みの親だ。太田さんは本社に移ってしまったけど、今でもここのセレクトが渋谷全体のレコード・ショップの指標になっていることは間違いない。今週は何をプッシュしているのだろうか。気になって仕方がなかったのだが、恋さんは無情にも店の目の前で華麗に左へとターンを決めるのだった。

ここまで歩いて来てようやく気づいた。彼女がぼくを連れていきたかったのはセンター街だっていうことに。途端に体の中で何かが薄れていく感覚を覚えた。

猥雑な通りには聴きたくもない曲が歪んだ音で鳴り響いていて、この通り特有の人種があふれんばかりに闊歩している。昼間なのにまるで明け方のようなムードだ。いつ来てもここの雰囲気には気後れしてしまう。
「今日は人口密度がまあまあだからわかりやすいかなー」

恋さんはひとりごとを言うと、こちらを向いて今度はハッキリとした口調で言った。
「久作くん、今コギャルがたくさん歩いているじゃん」
「ああ」

気のない感じでぼくが同意すると、彼女はリュックからMDウォークマンみたいな不思議なものを取り出して、人混みに向けてシャッターを切る仕草をした。見たことがないガジェットだけど、どうやらデジタルカメラらしい。恋さんはそこに映し出された写真をぼくに見せてくれた。ビックリした。マリさんが「買ってみたけど絵が粗くて使えないんですよねー」とボヤいていたQV-10なんか比較にならないほどきれいな画像だ。行き交う人々がものすごく鮮明に写されている。でも何かがおかしい。人口密度が実際よりも低いみたいだ。目を凝らしてみるとコギャルたちだけが写っていないことに気がついた。なんだろう、このカメラは。
「それ、コギャルだけ写らないカメラとか?」

ぼくが冗談を言うと、恋さんは澄ました表情でこう答えた。
「普通のカメラだよ。機械はゴーストを写せないから」

一瞬、笑い飛ばそうと思ったけど、口角を微かに上げた彼女の表情は自信にあふれている。
「どうしてこうなったか、歩きながら説明するね」

センター街の終点まで歩いていくと、恋さんは東急フードショーへと繋がる地下への階段を降りていった。あとをついていくと、フードショーまで伸びる地下道の途中に見知らぬ階段が脇道のようにできている。サインには「東横線 副都心線 田園都市線 半蔵門線」と書かれていた。最後のふたつはともかく、東横線に乗るのに何で地下に潜るんだろう? それと副都心線っていったい何なんだ?

階段を下りると、そこには見たこともない巨大な地下道が右方向へとどこまでも伸びていた。地下道は微妙にカーブを描きながらも、全体がなだらかな坂になっている。こんな設計では自分がどこにいるかわからなくなってしまうはずだ。事実、行き交う人々はサインを確認しながら恐る恐る歩いているようだった。
「今から五年前かな。東横線が地下鉄の副都心線と直通運転することになって、地下に潜ることになったの。それで渋谷駅全体が地下に潜ったわけ」

恋さんはそう言ったけど、そんな計画は聞いたこともなかった。
「すり鉢状になっている場所ってゴーストが溜まりやすいんだよね。あいつら時間感覚と方向感覚がないから、ぐるぐる回って外に抜け出せなくなっちゃう。ただでさえ渋谷はゴーストが集まりやすい地形なんだけど、駅が地下に潜って大きなすり鉢になったことでさらに溜まるようになっちゃった」

そう言い終わるか言い終わらないかのタイミングで、恋さんは通りの反対側に向かって例のMDウォークマンもどきのシャッターを押して、ぼくに見せた。そこに立っているはずのMA-1のボンバージャケットを着たチーマー風男子の姿がない。彼女が囁く。
「あいつも渋谷のゴーストなんだよ」
「こんな繁華街に何でゴーストなんかいるんだよ?」
「久作くん、何も知らないんだね。渋谷って古代から修行僧がコミューンを作って住んでいた場所なんだよ。だから神の泉、神泉なんて地名が残ってる」

とても十九歳とは思えないオカルト的トリビアを話す恋さんを見て、はっとした。この子が風変わりなのは彼女自身もゴーストだからなんだ。いま見せられているのは遠い未来の渋谷の風景で、それを通じてぼくに何かを知らせようとしているにちがいない。そんなこちらの憶測を知ってか知らずか、彼女は出口15番と書かれた方向へとゆっくり歩きながら話し続ける。
「駅が地下に潜ったことで人の流れも変わったんだよね。たとえば昔は東横線に住むお金持ちって東急本店で買い物していたみたいじゃん。そういう人たちは今はもう副都心線で新宿三丁目まで出て伊勢丹や髙島屋で買い物するようになっちゃってる」

恋さんは床下に広がる大きな吹き抜けを指さした。身を乗り出して覗いてみると、フロアーが何層にも積み重なっている。その遥か下にはホームがあって電車が今まさに到着するのところだった。あれが東横線なのだろうか。ぼくは井の頭線から東横線に乗り換えていた人たちはいったいどうしているんだろうと思った。
「あと東急沿線が値上がりしすぎて住む人が高年齢化してきたせいで、渋谷に通う若い子も減っちゃっているんだよね。いまは池袋の方が熱いって感じ」

いくら「今夜はブギーバック」がピーダッシュパルコのキャンペーン・ソングだったからといって、流石にそれはないだろう。でも彼女はさらに不可解な未来を語りはじめた。
「それに合わせて渋谷も変わりはじめているんだよね。たぶんオフィス街に生まれ変わろうとしているんだと思う」

そんなことは神に誓ってありえない。すり鉢状で坂道が放射線上に伸びている渋谷の地形はそもそもオフィス街には不向きなのだ。だからこそぼくらレコード・ショップみたいな弱小資本が進出して、世界に誇れるサブ・カルチャーのキングダムができた。それなのに無理にオフィス街にしたら渋谷という街が死んでしまう。

長く暗い地下道の行き止まりは、未来的なガラス張りのショッピングセンターだった。恋さんが言う。
「ここがヒカリエ。前は東急文化会館だったところ」
ということは、最上階にあったプラネタリウムも無くなってしまったのか。彼女を追うようにエスカレーターに乗って地上に出た時、ぼくは他にも無くなっているものに気がついた。というか、すべてが消えていて代わりに至るところにクレーンが立っている。渋谷全体が工事中なのだ。明治通り沿いに原宿方面に向かって歩いていくと、宮下公園までが白いフェンスに囲われていた。恋さんは一方的に喋り続ける。
「ゴーストってどこにでもいるものなんだけど、街に取り憑いているから、街が変わろうとするとそれに反抗して凶暴化するんだよね」

山手線の高架をくぐって街の中心部に戻っていくと、左手にタワーレコードが見えてきた。
「久作くんの時代からずっとやっているお店だよね。ここはまだ生き残ってる」
 いったい、彼女は何者なんだろう? 『ドラえもん』ののび太にとってのセワシのような遠い子孫で、渋谷改造がもたらした事故で死んで、ゴーストとして時を遡ってやってきたとか? ぼくは混乱したままパルコ方面への坂を上っていった。

「渋谷編:ウッパ・ネギーニョ②」へ続く

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』。ほかに小説集『あたしたちの未来はきっと』、『21世紀アメリカの喜劇人』、共著に『ヤングアダルトU.S.A』など。また、EYESCREAM本誌でもスクリーンで活躍する気になる俳優たちを紹介していく『脇役グラフィティ』が大好評連載中。

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Twitter : @machizo3000