CULTURE 2026.09.30

Report: IZAAIが六本木に灯した一夜――「信号待ちの熱帯魚」

Photography_Hiroshi Nakamura, Text_Yuki Kawasaki
EYESCREAM編集部

信号は、いつも唐突に赤になる。急いでいるときほど、その赤は長く感じられる。だが、その数十秒のあいだに、人はふと、自分が何に急いでいたのかを忘れることがある。2026年8月8日、六本木のCommonで開かれたイベントのタイトルは、そんな誰もが知っているはずの、しかし言葉にしたことのなかった時間を指していた。『信号待ちの熱帯魚』。奇妙な取り合わせのようでいて、会場に足を踏み入れた瞬間、その意味は不思議なほどすんなりと腑に落ちた。



主催は、クリエイティブチーム「IZAAI(イザアイ)」。この日のイベントは、彼ら/彼女らのローンチパーティでもあった。映像、写真、グラフィック、絵画――それぞれ異なる領域で活動する作り手たちが集まり、“ライブとアートが交差する一夜”を彩る。ステージと客席に境目のない空間では、まさに日常と非日常が同居していた。

熱帯魚は、なぜ信号待ちをしているのか。

イベントに寄せられたステートメントには、こんな一節があった。信号待ちとは、誰もが経験する「立ち止まる時間」である、と。目的地へ向かう途中、ほんの少しだけ足を止めるその瞬間、人は忙しさから離れて、自分自身へと意識を向けることができる。そして熱帯魚は、本来、街の中には存在しないものだ。だからこそ、その鮮やかな色や静かな泳ぎは、日常の中にふと現れる違和感や、美しさ、想像力を思い出させてくれる――そう綴られていた。


IZAAIのコアメンバーは、全員が山形県の出身。ミュージシャンとしてトリを飾った北村蕗と同郷で、東京のようなメガロポリスとは対照的な地方都市でその才能を育んできたアーティストだ。写真家で本イベントの展示に関するディレクションを行った朝倉一紗は次のように語る。

「東京と比べると確かに色々足りていないのですが、その分自分たちでやれることも多いんです。僕の兄が山形でCocoonというセレクトショップを営んでいるのですが、だいぶ個性を出せていると思います。IZAAIのメンバーとは喧嘩もしますが、“自分たちは良いモノを作っている”という自負は常に持っています」「ローカル感は自分の作品にも現れていると思っていて、僕自身が山形で育つなかで兄と触れてきた田舎のスケートカルチャーや、土地ならではの遊び・コミュニティの感覚が、現在の写真表現につながっているように感じます」

山形という地縁で結ばれたほか、中島寂やryuzenはIZAAIのメンバーであり映像作家のKUNIMARUがMVを手掛けており、今回の出演者は地続きなコミュニティの中から声をかけられた。岐阜県揖斐川町出身のラッパー・B.eは、また異なるローカル感を吹き込みつつ、普段はCommonのスタッフとして働いている。この日会場内で販売されていたグッズやイベントのフライヤーも、IZAAIに所属するグラフィックデザイナー/アートディレクターの山田胡桃の監修だ。

端正で柔らかな物腰とは裏腹に、ギラギラした闘志を燃やす朝倉。「僕よりも他のアーティストに興味を持ってもらえるほうが嬉しい」と語りつつ、「自分が誰よりもプレーヤー側の人間だと思います」と熱いバイタリティも隠さない。人物とファッションを軸に、コンセプトやブランドの文脈を重視した表現を続けてきた気鋭フォトグラファーは、今回のイベントで“フィルム”をモチーフにしたインスタレーションを制作した。

抽象と具体の真ん中を鮮やかに射抜く彼の“フィルム”は、会場内の奥で静かに、それでいて力強く鎮座していた。

「普段はクライアントベースで写真を撮ることが多く、最も重要なのはブランドのコンセプトやテーマの解像度を落とさないこと。その意味では今回の作品は真逆ですね。“自分に向き合う時間”として、僕は着替える瞬間を想像しました。日常の中のほんの一瞬ですが、服を選び取る行為って自分と社会を相対化するものだと思うんです」

「それと……」、朝倉は逡巡しながら言葉を続けた。

「きっちり撮りたいんです。クライアントワークに限らず、被写体やコンセプトを理解し、構図や光、表情まで責任を持って撮り切るという、写真全般に対して、いつもそうした姿勢で臨みたい。普段のクライアントワークと今回の展示作品はコンセプトが異なりますが、写真を撮る上での前提は変わらないですね」

また、本作には彼の大学時代の先輩にあたるプロダクトデザイナー・古屋匠が協力しており、機能美を備えながら木材独特の温かさを伝えていた。朝倉は盟友との共作に対し、「短い時間の中で形にしてくれて、本当に感謝しています」と感謝を述べる。


ライブのトップバッターを務めたのは、ギターを抱えて登場したryuzen。幼少期からアメリカン/ブリティッシュポップスと共に育ち、実際にニューヨークで生活した経験もあるシンガーソングライターだ。MCでも淀みのない英語を操り、「海外かぶれの日本人」と自虐を仕込みながら素朴なギターソングを奏でた。今年5月に配信リリースされた「all white」も披露され、孤独と葛藤を歌う。“ひとりのほうが気が楽だ”と語りながら、“本当にそう?”と問いかける様子は、喧騒にまみれた六本木の街をあまりにも克明に描いていた。

なお、先述のKUNIMARUが手掛けたMVというのが、まさしく「all white」である。さらにアートワークもIZAAIのCRA THE NIUSが制作しており、今回のイベントを象徴するような1曲だ。

人懐っこい笑顔が印象的なCRA THE NIUSは、「いやー、もうちょっと時間が欲しかったですね」と今回のインスタレーションについて振り返る。ダリのように無邪気な不条理と、『NieR:Automata』のようなシリアスさが彼の制作物から伝わってくる。


「正直に話すと完成までこぎつけられなかったんですよね。でも作品化はできたと思っていて、今回のテーマである“日常”には合わせられたかなと。絵画以外にも漫画も持ってきていて、それも来てくれた人に見てもらっています。個人的には作品以外にも反省点が多かったので、次に活かしたいですね。カオスな状況はそれはそれで魅力があると思うんですが、それにしてももう少し整えられたところはあったなと」

飄々と語る姿からは、フットワークの軽さと器用さが見て取れる。「未来の事象を仮定し、現在に反映すること」を作品のテーマに置く彼が、なぜいま“漫画”に惹かれているのか。漫画やコミックというよりバンド・デシネのような趣きを感じ、1コマそれぞれが絵画のような情念を備えていた。



 
ryuzenに続いてステージに登場したのは、ラッパーのB.e。身の回りの環境からインスピレーションを得てきた彼は、ヒップホップのマナーで語られてきた“hood(地元)”を必ずしもレペゼンしていない。今回のライブでも披露された「boy hood」では“帰る場所はべつに家や地元じゃなくていいんだ”と歌い、自身のアイデンティティを特定の場所に委ねていない。東海岸や西海岸への帰属意識を強調していた90年代のUSヒップホップを基調とするならば、異端とも言える。

スモークが焚かれたフロアよりも、駅のホームや近所の公園が見えてくる。ビートの質感は限りなくタイトだが、クラブの外側でも鳴るポテンシャルを秘めていると感じた。

ライブ後のB.eにそう伝えると、「初めて買ったCDが不可思議/wonderboyとTOKONA-Xなので、すごく嬉しいです」と破顔した。自分の“所属”をいまいちつかめていない人間の心境を端的に言い当てられたような感覚を持ち、ほのかに救われた気分になる。とはいえ、彼は“家”を放棄したわけではない。「ここ数年の間にいろんな街に行ってみたんですけど」と前提を語った上で、彼は次のように明かした。

「静岡でやってる『FESTIVAL de FRUE』にスタッフとして参加したことがあるんですけど、そのとき立ち寄った季節料理屋でかけられた言葉を今でも覚えていて。僕の実家、米農家なんですよ。そのお店の料理人の方はすごく寡黙だったんですけど、『あのお米が日本一おいしいよ』と言ってくれて。なんか、泣きそうになるぐらい嬉しかったんですよね」

瞳を潤わせながら語るその姿に、まさしく自己の所在を感じた。帰るところが特定の場所でなくとも、仮に絶えずそれが変わり続けても、不変のものとして持っておくことができる。“レペゼン”とはまた異なる「家」の存在。東京の喧騒の中、故郷を見つけたような気がした。





その後、前日に21歳の誕生日を迎えた中島寂がマイクの前に姿を見せた。現役大学生のシンガーソングライターは、「寂しい」という感情こそが自分の音楽の原動力であることから、アーティスト名に「寂」の一字を選んだという。そのコンセプトの反面、メロディーやリズムはキャッチーだ。本人の振る舞いも、天真爛漫そのものだ。だが、Tiktokを通じて広がった「夕日」しかり、写実的な描写から切なさを感じさせる表現力は非凡だ。


本人が快活に立ちまわるほど、実像がどんどん遠ざかってゆくような不思議な感覚があった。知っているようで全く馴染みがない感触は、まさに『信号待ちの熱帯魚』と言いたくなる。KUNIMARUがMVのディレクターを務めた「雑多」もまた、通り過ぎてゆく心象風景に違和感を覚えるような手触りがある。ラストサビの歌詞にハッとして、ウチに帰ってからちゃんと調べた。やはり聞こえた通りで、メロディアスな曲だが、ちょっとした怖さもはらんでいると思う。なお、「雑多」のMVにおけるロゴやクレジットのデザインは、IZAAIの山田が手掛けたものだ。

会場内でひと際目を引いた写真がある。それがKitamotoによる展示。写真、映像、イラストなどさまざまな表現方法で活動する彼女が今回のイベントで選んだのは、写真のインスタレーション。東京と香港で撮影された写真が壁に並んでいた。鮮やかな色彩と、スローと高速が交差するようなスピード感を画角の中に収める手法……。


「ウォン・カーウァイとかお好きですか?」と聞くと、「やっぱり何も言わなくても分かりますよね(笑)。作り手としては映像から入ったこともあって、映画が参考になっていることが多いです」との答えが返ってきた。

他に好きなアジア映画を尋ねると、イ・チャンドン監督による『オアシス』(2002年)の名前があがった。「余白が好きなんだと思います」と、Kitamotoが続ける。悲劇的な結末の中でヒロインが陽光を浴びながら示唆的に終わる『オアシス』、差し出された搭乗券に新たな行き先を追加し、予感めいたエンディングを迎える『恋する惑星』(1994年)。確かに“余白”がある。

「人との距離感を測るのが下手なんですよ。『境界線』や『関係性』がテーマというのはそれが理由です」と続く。世界や人間への好奇心を出発点に、他者とのあいだに生まれる距離感やすれ違いを見つめながら、新たな対話のきっかけを探る――2つの都市の空気が、同じ壁の上でどのように響き合っていたか。

そこに写し出されていたのは現代の空気感というより、タバコの制限などがほとんどなかった90年代の雰囲気だったように感じられた。近年のポップカルチャーを振り返っても、『攻殻機動隊』(2026年)や『ゴジラ S.P<シンギュラポイント>』(2021年)、『サイバーパンク: エッジランナーズ』(2022年)など、“レトロフューチャー”を標榜する作品が散見される。いずれもそこにあるのはノスタルジーばかりではなく、ある種の“怒り”が共通しているようにも見える。現在的な“未来”に不満があるとき、我々の想像力はレトロを問い直すことができる。

ライブのトリを務めたのは北村蕗。フジロックへの連続出演やSXSWへの出演を経て、2025年11月には1stアルバム『Spira1oop』をリリースし、恵比寿LIQUIDROOMでのワンマンを成功させてきた実力派だ。冨田ラボへの参加やTomgggとのコラボレーション、梅井美咲との°pbdb、DJ活動と、特定の枠にとらわれない活動を並行して展開している。

“ジャンルを超越~”的な文言は昨今の音楽シーンにあふれ返っているが、彼女はその言葉が真に当てはまる存在だ。楽曲でアンビエントやドローンのような印象を持って現場に赴けば、そこではゴリゴリのテクノセットが展開されるというのはザラである(もちろん大抵はどのような内容なのか事前にアナウンスされるが)。北村蕗のYouTubeチャンネルやInstagramを覗いても、カバーの対象となる楽曲は実に様々だ。ハイエイタス・カイヨーテの「Bulding a ladder」やXGの「IYKYK」、吉田美奈子の「恋は流星」が並ぶ。

この日、彼女が携えてきたのはアコースティックセット(テクノセットの対極という意味で)。アップリフティングな高揚ではなく、内側へ内側へと沈んでいくような音の連なりだった。『Spira1oop』がリリースされた際、本作について「これまで点在していた北村蕗の多様な表現を初めて体系的に束ね、アーティストとしての中核を一枚に定着させた初のフルスケール作品」と説明していた。2025年11月のリリースから1年も経っていないが、さらに広がり続けている点は驚異的である。

そのしなやかさを見ながら、ふと頭をよぎったのはYMOのことだった。筆者はリアルタイムで彼らの変遷を追えておらず、各々のソロも含めてほぼすべての作品を後追いで知った世代だ。ありとあらゆるサウンドスケープを3人で作り上げたが、それらに匹敵する“伝説の始まり”を間近で見られているのではないか。大仰に音楽シーンを背負わせるのは本意ではないが、夢を託したくなるほど彼女のスケールは大きい。ライブの最後に大きな期待感を募らせ、ぬるくなったビールを一気に飲み干した。

会場を出て、六本木の交差点で信号が変わるのを待つ。赤から青に変わるまでの、ほんの数十秒。その短い時間の中に、さっきまで見ていた写真や絵画や、耳に残る歌声が、ふと蘇る。信号待ちの熱帯魚は、たぶん、こういう瞬間にこそ静かに泳ぎ始めるのだろう。

初めての主催イベントを、IZAAIはどんな手応えとともに終えたのだろうか。今年の夏はこの数年に比べるとやや涼しく感じられるが、この日の夜は彼らの熱量にすっかりあてられてしまった。

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