4月22日、渋谷WWWで行われたbutajiのライブを思い出すとき、タコスの味が舌に浮かぶ。普段はライブのあとに何を食べたかまで覚えていないのだが、あの日は一緒に足を運んだ友人、会場で顔を合わせた別の友人、さらにその友人たちと連れあって、終演後にタコスを食べに行ったのだった。そこで特段何か忘れ難い話をしたわけではないのだけど、それでもその味を覚えているのは、ライブのなかで生まれたあたたかさが終演後も途切れず我々のあいだに漂っていたからだろう。
ライブの記憶と言ってもそこにはいろんなものが混ざり合っている。どんな演奏だったか、どう響いたか、誰と行ったか、どこから見たか、終演後にどんな話をしたか。タコスの味もそう。それがライブの記憶であり、記録ではない。記録が記憶そのものになることはなく、記憶もまた記録には還元できない。けれど、河合宏樹が監督したbutajiのライブ映像には、なぜか記憶に似た肌触りがある。
『butaji “Thoughts of You release tour”』は、butajiにとって5年ぶりとなる4枚目のフルアルバム『Thoughts of You』を携えて行われたツアーの様子を収めたライブ映像である。8月24日には東京・代々木上原のhako galleryで関係者向け先行上映会が開催され、上映後にはbutajiと河合が本作の制作について語った。

この映像は、butajiにとって初めてとなるバンドツアーから生まれたものだ。5年ぶりのアルバムを携えて各地を巡った一方、初めてだからこそ「もっとこうできれば」という思いも残ったという。そこで、録音・撮影された素材を自ら編集してアーカイブし、「このツアーをやってよかった」という、いい記憶としてもう一度自分のなかに残そうと考えたのである。

butaji
映像や編集は河合が、音の仕上げに関してはbutajiが自ら担った。ステレオのツーミックスで録音されたライブ音源を、AIでパートごとのステムに分け、編集・再ミックスした。こうした技術は、アルバム制作中に発声障害を経験し、使えるボーカルテイクを自ら選ぶ必要に迫られたことで身につけたと語る。ただし、目指したのは音をきれいに整えることだけではない。butajiは、平面化したり、まん丸にしたりせず、角張った部分やゴツゴツした部分を残すことで、聴き手の感情が引っかかる「とっかかり」が生まれると話す。そうしてあえて残された粗さは、演奏の不備ではなく、ライブにあったエモーションの痕跡として聞こえてくるのである。


河合宏樹
河合が繰り返し語っていたのは「ライブとライブ映像はまったく違う」ということであった。カメラにライブを収めても、それはライブそのものにならない。河合がライブ映像を10年ほど撮り続けてきた理由も、たどり着けないライブとの距離を考え続けてきたことにあるという。今回の映像は、その距離を埋めてライブを再現するのではなく、映像にしか作れない視点からツアーを組み直す。butajiは、ライブの体験には一人ひとり異なる視点があり、それらを集めて一つの作品にすると、個別の視点はどうしても削ぎ落とされると話す。枝葉が切り落とされ、大きな幹だけが残る。それでも本作は、映像を一つの滑らかな視点へ均すのではなく、そこからこぼれ落ちかねない撮影者の反応や癖を、できる限り画面にとどめようとしている。
その試みを支えるのが、4人の撮影者だ。彼らは、正面の客席やステージを見上げる最前列、斜め前や後方、舞台袖に近い横位置など、会場内のさまざまな場所からライブを捉えていく。それぞれの映像は、各所からステージを眺める観客、あるいはステージ脇の関係者の目を思わせる。観る者は一つの特等席に腰を落ち着けるのではなく、会場に散らばる複数の視線を次々と渡り歩いていく。ときにはクローズアップによって、客席から肉眼では捉えにくい表情や細部にまで近づいて。しかも、その視線は流動する。カメラはときに身体の揺れを感じさせながら、butajiの顔からメンバーへ、全身から楽器を操る指先へと目を移す。動きが生まれればふいにズームし、音が鳴ればその方向を向く。演奏を満遍なく保存する機械の視線というより、音や仕草に目を奪われ、そのつど注意を移していく人間の目を思わせる。カメラが目だとすれば、編集が形づくるのは、その注意の動きである。


河合は、撮影を担った4人が持つそれぞれの「手癖」を、排除すべき乱れではなく「ノイズ」として取り入れたという。音だけを基準にすれば、なぜこのタイミングで寄るのかと感じる動きもある。曲への思いが強まりすぎて、河合が「ちょっと様子がおかしいぞ」と思うほどエモーショナルになった映像も残した。butajiは河合について、客観性を保険にせず、「私はこう見ています」という一人称の視点を信頼する作家だと語る。その言葉どおり、画面には「自分はこんなふうにここを見た」という撮影者それぞれの意思が刻まれている。たとえば最前列からbutajiを仰ぎ、その表情を親密に捉えたショットには、画面外から差し込む照明がときに虹色のレンズフレアとなって重なる。その光はbutajiを神格化するというより、彼の顔を少しでも近くで捉えようとする眼差しに、きらめく質感を与えている。大切な瞬間が記憶のなかで現実よりも煌めいて思い出されるように。



また「presence reprise」のように会場に大きなうねりが生まれる曲では、カットの切り替えも細かくなる。butajiの全身的な動き、メンバーの身体、楽器を奏でる指先、音を受けて揺れる観客。ステージと客席の各所に広がる運動を拾い上げ、ショットからショットへと受け渡すことで、映像にもリズムとグルーヴを生み出していく。対して、静謐なパートでは、カメラはbutajiの顔に長くとどまり、声や表情、呼吸のわずかな変化を見つめる。細かく切ることと、一つのショットにとどまること。その緩急によって、音楽の時間を映画の時間へ移し替えている。カメラはステージと客席を往還し、演者の身体から音に揺れる観客の身体へと視線を移す。現実ではステージで物理的に隔てられていた両者は、映像のなかで同じ音に反応する身体として結ばれ、会場全体が渾然一体となるのである。
作品は渋谷での一公演にとどまらず、途中で名古屋(金山ブラジルコーヒー)や神戸(太陽と虎)へと場所と時間を移す。ここでもゆったりとした曲では映像はその呼吸に寄り添い、『黄昏』の終盤でテンポが上がると、カメラもダイナミックな動きを見せる。その映像には、開演を待つ観客やリハーサル、控室で笑い合うメンバーの姿も差し挟まれ、ステージの外で共有された時間までツアーの記憶として編み込まれたが、とりわけ『中央線』には河合の個人的な景色が刻まれている。神戸の会場は高架沿いにあり、butajiが「中央線」と歌った瞬間、偶然にも電車の音が重なった。それを忘れられなかった河合は、映像にも高架沿いのショットを加えたという。映像に残された電車の音や高架の景色は、ライブを客観的に説明する情報ではなく、河合の記憶に刺さった一瞬である。通常のミックスなら消されかねない物音や違和感を、河合は徹底して生かそうとする。それに対しbutajiは「僕なら恥ずかしいから生かさない」と笑う。その違いもまた、約10年来の友人である二人が、別々の方向を向いたまま共同作業をするための力になっているのだろう。

一回きりのライブを映像にすれば同じ形で何度でも再生できるが、河合はいつも同じ状態で上映することには興味がないという。映画館ではその日の空間に合わせて音を調整し、今回の上映中にも実際にマスターボリュームを上げていた。観客や出演者、スタッフとともに作品が最も届く環境を作る。その感覚から、河合は自らを映画監督ではなく「ライブ映像作家」と名乗った。ライブそのものにはなれない映像を作り、上映の場には再びハプニングを呼び込む。完成した映像は繰り返し再生できても、誰と、どこで、どのような音で観るかによって、体験は再び一回きりのものになる。河合は、1時間半の演奏を誰かと同じ場所で身体ごと受け止められる機会を作ろうと、全国の映画館やミニシアターへ自ら働きかけていると語る。


ライブの掉尾を飾る『In Silence』では、音に導かれて動く撮影者の目、演者たちが共有した時間、各地のステージと客席に生まれた身体の躍動が、静かに束ねられていく。本作がそれらを唯一の正しい光景へ統合することはない。異なる場所と時間に生まれた断片を、それぞれの記憶を保ったまま重ねていく。一人の人間が、それらすべての光景を同時に目にすることはできない。それでも、その場にいたそれぞれが、その一部を確かに見つめていた。その視線には、そのときの感情や、ライブ前後の記憶まで宿っている。だからこそこの映像は、ライブの記録であると同時に、各地でそれぞれが持ち帰った幸福な記憶の集積なのだ。そのなかには、終演後に食べたタコスの味も確かに含まれている。