70年代、グラフィティがまだアートと定義されていない時代。スプレー缶を手に取ったニューヨーク生まれの若者は、80年代に入るとキース・へリング、ジャン=ミシェル・バスキアたちと共にストリートの枠を超え、アートシーンへと表現の場を広げた。その後の彼は90年代の裏原宿発世界行きのムーブメント、そして、ストリートウェアがメインストリームと化した現在に少なくない影響を与えている。神宮前のギャラリーThe Massで開催された個展『GENERATION Z』に際して、フューチュラに訊くこれまでの軌跡、そして在り方。
FUTURA
“There is an angle to touch old and new.”
—知らない人もいると思うから、まずはじめにバックグラウンドを教えて。グラフィティを描き始めたのは15歳からだってインタビューで読んだんだけど。
高校に通っていた15歳の時だね。友達が描いていたのを、その時はただ見ていたよ。それから俺も壁に描きたくなって、「FUTURA 2000」という名前を作った。そうは言ってもアマチュアだからね。無邪気に描くことを楽しんでいたよ。美しいとかそういうことではなく、俺のグラフィティにはスタイルがあった。そこから時間をかけて少しずつ本物のムーブメントになっていった。だから、他の若い奴と同じだよ。友達がやっているのを見てやりたくなって、その世界に連れて行ってもらった。それがすべての始まりだね。
—なぜグラフィティで自分を表現することを選んだの?
当時は若者特有のエネルギーやフラストレーションがあったと思うね。誰かに自分を認めてもらうために「俺を見てくれ! 俺はここにいるんだ!」って叫びたかったんだと思う。ニューヨークには何千人もの若者がいるだろ。俺はお前らとは違う、特別な存在って信じたかったんだ。
それから俺は、1974年からの四年間を軍隊で過ごした。18歳から22歳の時だ。日本にもいたことがある。そして、ニューヨークに戻って地下鉄を見た。一体何が起こったのかわからなかったよ。多くのアーティストが一車両丸々使ったグラフィティ表現を始めていたからね。信じられないぐらいシーンは発展していたんだ。軍隊からグラフィティスクールに戻った78年からの2年間はとにかく試行錯誤を繰り返したよ。1980年になって俺は24歳。周りは10代ばっかりだったな。グラフィティの平均年齢は18歳ぐらいだからね。彼らより俺の方が年が上だし、ニューヨークだけを見て育ったわけじゃないからな。海外を見てきた軍隊での経験は当時も今でも、作品作りに生きていると思うね。
だから、70年代に俺が始められたのはタギングだけで、アートとしてエキシビジョンを開催したのは80年代以降だ。俺、ドンディ・ホワイト、ゼファー、キース・ヘリング、バスキアたちとのストリートアートの誕生の瞬間だった。80年代が始まる頃、みんなが集まってきたんだ。
—環境が劇的に変わった時だよね?
とてつもなく変わったよ。俺たちは電車に絵を描くことはできるけど、キャンバスを使って表現することなんて知らなかった。もちろんギャラリーのこともね。1980年にFashion Modaっていうブロンクスにあったスペースで展覧会が始まった。1981年にはNew York’s New Waveという大きな展覧会がMomaのPS1と呼ばれるスペースで開催された。それはギャラリーでも美術館でもない、小さな部屋が多くある元々学校だった場所。そして82年にFUN Galleryだ。
俺たちはグラフィティやアートだけじゃない。ヒップホップやBボーイといったニューヨークのカルチャーを牽引してきたんだ。ニューヨーク出身であることをとても幸運だと思うよ。
—昔はキンコーズで働いていたんだよね?
よく知っているな。キンコーズを少しの間、アトリエ代わりに使っていたんだけど、そこにはコンピューターがあった。93、94年のことだ。Tシャツを作り始めた頃、キンコーズにアップルコンピューターが来たんだよ。当時、アップルを買う余裕は無かったからな。1990年のアップルのノートパソコンは$5000くらいした。頭がイかれてやがるだろ? でも、キンコーズに行って$5払うと一時間使えた。金を払いたくなかったから会社で仕事を得ることにしたんだ。そしたら使用料は払わないで済んで、何にでもアクセスできる。コンピューターもプリンターもある。もちろん紙もな(笑)。なんでもあったんだ。夜勤で働いていたんだけど最高だったよ。23:30には職場に着いて、カラーコピーの部署で働いていた。インクについて俺は詳しかったから、カラーの専門だったな。三時間くらい集中して、自分の仕事を終わらせて、それからの5時間は誰も来ない。そこでありとあらゆる実験をして、コンピューターについて学んだ。
“グラフィティみたいにインターネット上に自分の名前を書きたい”、というのが俺の最初のアイディアだった。ウェブページの作り方を学んで、自分について書いた最初のウェブサイトを作った。キンコーズで働く人からHTMLやその他コーディングなどいろいろなことを学べたね。
—90年代はどうだった? ?
96年にNIGO®さんや東京の友人たちと出会ったよ。彼らとの出会いは印象的だったね。日本のみんなは全員若かったな。俺は既に…40歳のおっさんだった!(笑)。君が俺と話している時も父親と話しているような感覚かもしれないな。でも、これがとても重要なんだ。ムーブメントには時間がかかるもんだろう?
アートでもなんでも、ストリートカルチャーってのは、すぐには受け入れられないものなんだ。危険で、規則外。だから俺たちはアウトローから始まり、時間をかけてヒーローのようになるんだよ。これは90年代に限らず、いつの時代もそう。「見てくれ!これが俺だ!」って、今この瞬間もいたる所で若者たちが狼煙を上げている。認識されたくて、尊敬と注目が欲しいんだ。でもそうなれるのは稀で、俺はラッキーだったと思うよ。
—僕は当時のニューヨークのムーブメントが裏原文化や、今日のカルチャー強いに影響を与えたと思っているんだけど。あのムーブメントは、どうやって発生したの?
新しい情報も技術もスタイルも、自分の中より、外から入ってくることの方が多い。だから俺にとって、他のアーティストやおもしろい奴と会うことはとても大事なことだと考えている。それで友達になって一緒につるんだり、展示を企画したり、ペイントしたり、デザインを一緒にやったり、Tシャツを作ったりする。その過程で、互いのアイディアが近づいていき、コミュニティが生まれる。これがとても重要だ。コミュニティには強さがある。俺みたいなアーティストはみんな一人で独立している。だからこそ集まり、混じり合ったんだろうな。その時に生まれた大きなうねりのようなものが、ムーブメントになっていったように思うね。
そしてまた個々で成長し始める。なぜなら、自分はそのコミュニティの一員だという誇りが生まれるから。でも、俺は俺だ。俺自身として成り立っている。自分自身でいることと、コミュニティの中にいること。その繰り返しさ。
—生きることとは?
ドンディは死んだ。バスキアやキースも死んで30年が経つ。それが意味するのは、今日、俺がここにいることはとても幸運で、ありがたいということだ。人生はいつか終わる。俺は今63歳で、もう30年という時間が欲しいとここで言いたいね。90歳を手に入れたいんだよ。だから、これから先の30年間で何ができるかを考えようと思うんだ。
俺が15歳のときにつけた名前は”FUTURA 2000″。1970年、15歳の時のビジョンは先を見据えすぎていて、そこに何があるのか分からなかった。2000年まで生きられないで、死ぬだろうと思っていたよ。それが今や2020年だ。あれから50年も経っちまった。未来のことは誰も分からない。でも夢を描いて、想像し、胸を踊らすことができる。今、俺は2050年のことを考えているよ。そこでまた会おうぜ。その時君は60歳で、俺は93歳だ。一緒に酒を飲もう。
—次の展示の作品は全て東京で作ったと聞いたけど、どのように日本文化に影響を受けたの?
俺と日本との歴史は長いんだ。以前、福岡に《FUTURA LABORATORIES》というお店があってね。だから九州についてもよく知っている。俺にとっての日本は東京だけじゃないんだ。それに日本とは精神的にも密接な関係を持っているよ。自分の仕事をする時、いつもそこに日本の繊細さみたいなものを感じながらやっていてね。それがクリエイティブと呼応しているといい作品ができている証拠だと思う。
東京では、NIGO®︎さんと「COMMAND Z」という展示を2000年に開催した。The Massで行う新しい展示は「GENERATION Z」、ミレニアル世代の後の若い子どもたちについて考えるために、この名前を使いたかった。彼らはこの世界の未来だからね。今回の展示を彼らが気に入ってくれるかわからないけど、俺の名前とともにこのカルチャーを認識して欲しいね。STASHとの作品も発表するつもりで、奴とは20年以上も一緒に活動している。これらも俺たちはまだ一緒に歩んでいくだろうな。またNIGO®︎さんとも何かプロジェクトをすると思う。日本とは長い間、強い絆を培ってきた。また展示で、ここに戻ってこれたことが嬉しいよ。
—他には何に影響を受ける?
俺の人生にとって子供は最も大切なものだ。息子は34歳、娘は28歳でもう大人だから、手はかからないんだけど、彼らの将来についてはとても気にかけている。もちろん、友達や仲間も大事だ。周りのみんなが幸せなら俺も幸せだ。自分のキャリアとか、スニーカーやおもちゃのペインティングだけを見てフューチュラって最高だとか、クソだとか、そんなのはくそくらえ。どうでもいい。子供たちや周りの人たちこそがリアルで、俺とは何かを教えてくれるんだ。金がどうとか、有名人だからとか本当にどうでもよくて、愛する人々が一番大切なんだよ。
どんなに大変でもどうやって、愛とリスペクトをもって、絆を作って一緒に生きていくかを見出す、それが生きる上で一番大切なこと。リアルライフを良い方向に進めることが、俺がアーティストとして思う興味深いことなんだ。デカい美術館で展示しても、家族とか友達とか愛する人が誰もいない。これはすごく悲しいことだと俺は思う。前妻と俺は別れて、母と子は離れて暮らし、新しい人生の章に帆を進めた。彼女のことはとてもリスペクトしているよ。彼女は子どもたちを生んでくれた。素晴らしいことだ。だから今でも俺たちはいい友人関係にある。俺たちは別れたけど、人間であり、子供たちの両親であり続ける。これが俺をアーティストとして進化させ続けているよ。
インタビューをありがとう。タバコを吸うから外へ出よう。