くるりやKID FRESINOのツアーバンドのドラマーとして知られる石若駿が、新プロジェクトAnswer to Rememberを始動させた。「中学卒業したら俺のバンドに来なよ」。10代前半に札幌のジャズシーンで頭角を現した石若を誘ったのは、ジャズ界のレジェンドであるトランペッターの日野皓正。それほど突出した存在だった。
その後単身で東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校に進学。そして藝大へ上がり、常田大希(King Gnu/millennium parade)や江﨑文武(WONK)、MELRAWらと出会う。今回のAnswer to Rememberにはそんな石若の経歴が色濃く反映されているという。「素晴らしい仲間との縁を大切に、新しい音楽を作っていくプロジェクト」と語るAnswer to Rememberとは一体どんなものなのか。12月4日に発売されたセルフタイトルアルバムの内容と合わせて聞いた。
27歳の今、自由にセッションしてた大学時代を思い出す。その答えを作品に。
ーAnswer to Rememberは石若さんにとってどんなプロジェクトですか?
「気心の知れた仲間たちと安心して自分たちの音楽がやれる場所」みたいなイメージかな。僕は今27歳なんですが、このAnswer to Rememberに参加してるミュージシャンはほとんど同世代なんです。僕は10代の頃から偉大な先輩ミュージシャンたちと演奏してきて、それは素晴らしい経験だったけど、一方で当時は同じ感覚を持った同世代のミュージシャンがいないことに寂しさも感じていたんです。ジャズが大好きな一方で、ロックやヒップホップ、R&B、ハウス、テクノみたいな音楽も大好きだったから。
でもちょっとみんな疲れてるような気がしたんですよ。それを顕著に感じたのは2018年の年末。忘年会で常田や文武、MELRAWと会って話すと、それぞれがいろんな思いを抱えてた。それで確か常田と飲んでた時、「2019年はあの頃の仲間たちでまた集まって何かやりたいね」という話になったんです。大学の頃、気の置けない仲間と自由にセッションしてた僕らが今再び集まって、当時のマインドで自由に音楽を作ったら、面白くて、楽しくて、カッコいい何かができるような気がしました。Answer to Rememberを直訳すると「思い出の答え」。プロジェクト名にはそんな思いが込められています。
ー音楽的にはどんな特徴があるんですか?
自分がドラマーであるという特徴を活かしたいと思ってるんです。ドラムっていろんな音楽に関われる楽器なんですよね。実際、僕はド渋なジャズバンドのライヴに参加した翌日にKID FRESINOくんのバックでドラムを叩いてたりする。ドラムにはそんな振り幅がある。Answer to Rememberのサウンドは僕のバックグラウンドであるジャズがベースになってるけど、面白くてカッコいい音楽には自由でいたいと思っています。
ーAnswer to Rememberに参加しているメンバーを教えてください。
主なメンバーは、ほぼ全ての楽器ができるMELRAW、オーストラリア人のベーシストのマーティ・ホロベック、高校生の頃から友達の鍵盤奏者の海堀弘太くん、北海道時代から仲がいいトランペット奏者の佐瀬悠輔くんかな。彼らとは何回もセッションしてきたけど、実は録音物を残すのは今回が初めて。昔ながらの仲間と新しい音楽を作るっていう。そういう意味でも、Answer to Rememberは僕の個人的な「思い出の答え」でもあるんです。
集まって演奏するだけで必ずアツくてカッコいい音楽になる
ー制作はどのように進めたんですか?
曲によって違うんですが「Still So What feat. ATRBand」「410 feat. Jua & ATRBand」「RUN feat. KID FRESINO」あたりはセッションがベースですね。参加してくれた人たちは技術はもちろん、感性も知識も併せ持った本当に素晴らしいミュージシャン。だから集まって演奏するだけで、必ずアツくてカッコいい音楽になる。メロディとコード、展開という楽曲の大枠だけ僕が決めた感じ。でも正直、どの曲も想像を上回るものができたという感触があります。
この曲は去年亡くなったトランペッターのロイ・ハーグローヴをトリビュートする気持ちで作りました。僕は中学生の頃からロイが本当に大好きで、ずっと新譜を楽しみにしていたんです。ジャズとヒップホップ〜R&Bをいち早く繋いだのはロイだと思う。彼はソウルクエリアンズのメンバーで、エリカ・バドゥ「Mama’s Gun」、ディアンジェロ「Voodoo」、コモン「Like Water for Chocolate」という超名盤にも参加してます。ロイの急逝は世界の音楽シーンにとって大きな損失です。けどそれ以上に、僕は単純にロイが大好きだったから、亡くなってしまったことがものすごくショックだったんです。それで「もしも彼が元気だったらこんな曲を作っただろうな」というイメージで作曲しました。