真に、ヒップホップ的な小説とは、何か。
体制に抗うだけでなく、
知的言葉遊びとしての側面も強いヒップホップ。
長谷川町蔵氏が考えるヒップホップ的な小説とは?
“ I’m not the man I thought I was and I better be that man for my children.” The same is true for me.
(昔の俺は全然いい人間じゃなかった/これからは子どもたちのためにマシな人間になるよ/そして自分自身に対しても)
これは先日、長年にわたるセクハラを女優たちから告発されて窮地に立たされた大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが謝罪文の中で「ジェイZもアルバム『4:44』でこうラップしていたけど」と書き添えて発表したリリック(詞)だ。のちに判明したのだが、
実はこんなリリックは『4:44』の中には存在しない。
ワインスタインは、自分もジェイZのように社会的に許されたい気持ちのあまり、ありもしないリリックを脳内で作ってしまったのだろう。『4:44』は自分の浮気(妻のR&Bシンガー、ビヨンセは昨年発表したアルバム『レモネード』でこれを告発していた)についてほぼ全編にわたって妻に謝罪したことで話題を呼んだアルバムだ。内容的には私小説といえるだろう。それでは文学的かというと、そうではないとぼくは思う。ジェイZはリリックを紙に書かずに頭の中で全部作ってラップすることで知られている100パーセント口語的な思考の男だからだ。
ヒップホップの世界では彼のような人は必ずしも珍しくない。「サウス(米南部)のジェイZ」と呼ばれたことがあるラッパーのT.I.には『Paper Trail』や『Paperwork』というタイトルのアルバムがある。これは「リリックの内容を頭で考えるだけでなく、紙に書いて推敲したこと」を意味している。T.I.は、詞を紙に書いたことをまるで特別なことのように自慢しているのだ。
2011年に出した『文化系のためのヒップホップ入門』という本で、ぼくは「ロックは小説だけどヒップホップはTwitterだ」と表現したことがある。それはヒップホップがロックのように文学的でないことを表現しようと考えたフレーズだった。その決定的差異は作者の自我の有無にある。ロックには必ず伴なっている作者の自我がヒップホップでは必ずしも必要とはされていないのである。
こんなことを書くと、「ラッパーはみんな自己主張の塊」「ヒップホップとはゲットーで虐げられた黒人の魂の叫び」と思う人もいるだろう。しかしラッパーのリリックは必ずしも本人の意思が反映されたものではない。特定のトピック(その中には政治もセックスもホラ話もある)に対して、どれだけ気の効いた言い回しができるかを競い合うゲームとしての側面の方がはるかに強く、リリックも、ラッパー本人よりもコミュニティの人々が共有する価値観に基づいて発せられていることが多いのだ。
そのためか、これだけ詩人が多いにもかかわらず小説を書いている有名ラッパーはとても少ない。例外は98年に『Am I My Brother’s Keeper』を全米5位にチャートインさせた実績を持つ双子兄弟デュオ、ケイン&アベルくらいだろうか。
2004年に発表した『ディーバ』は翻訳まで出たヒット作だが、人気女性R&Bシンガーの事故死の謎を追う刑事の前にラッパーやギャングといったクセのあるキャラが次々と登場する物語といい、文章中に台詞が占める割合の大きさといい、意図的な紋切口調の多用といい、我が国でかつて一世を風靡したケータイ小説に限りなく近い。
なお本書の翻訳を出した青山出版社は、一時期「ヒップホップ・ノベルズ」と題したシリーズで(本国では)黒人系向けのエンタメ小説を多数刊行していた。いずれも文中にR&Bやヒップホップの曲名がふんだんに登場してファンには楽しめるのだが、内容はテレビドラマ『エンパイア 成功の代償』を彷彿とさせるもの。あまり文学的ではないことは確かだろう。
だから真にヒップホップ的な小説とは何かと問われたら、ぼくはヒップホップそのものが文中に出てくる作品よりも、ナイジェリアのエイモス・チュツオーラが拙い英語で書いたシュールな『やし酒飲み』や、かつてシカゴで最も成功したピンプ(売春婦のポン引き)だったアイスバーグ・スリムが過去の自分を振り返ってみせた武勇伝『ピンプ』といった、ヒップホップ登場以前に黒人的な口語表現にこだわった作品を挙げるだろう。
Iceberg Slim
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もっともヒップホップ同様に、非文学的な音楽だったモダンジャズに惹かれた部外者ジャック・ケルアックが、その感覚を文学的に翻訳して『オン・ザ・ロード』を書いたように、ヒップホップ的な感覚を翻訳しようと試みた文学も少なからず存在する。
Jonathan Lethem
Photo/Getty Images
ジョナサン・レセムの『孤独の要塞』では、白人少年ディランと親友の黒人ミンガス(前者がノーベル文学賞受賞者、後者がモダンジャズの巨人と同じ名前なことに注目)を軸に70年代のブルックリンの変遷が描かれる。ファンクバンドのメンバーだったミンガスの父の活動が停滞していく一方で、子どもたちは街中でグラフィティを描くようになり、ニューヨークではヒップホップが胎動しはじめる。その到達点として初のヒップホップ・シングルであるシュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・ディライト」にも言及されている。作中で主人公に影響を与えるものが文学ではなく、ポップミュージックやコミックなことにも注目したい。実は本作、小説のタイトル自体がスーパーマンの秘密基地から取られているのだ。
Richard Powers
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『孤独の要塞』と同じ2003年にリチャード・パワーズが発表した『われらが歌う時』は、ユダヤ系白人の父と黒人の母の間に生まれたジョナとジョゼフ、ルースの三兄妹を描いた大河ドラマだ。両親は人種差別を恐れるあまり、その実情を教えずに子どもたちを育ててしまう。彼らの影響で、ライトスキンで一見白人に見えるジョナはクラシック声楽家としてのキャリアを歩みはじめ、語り手であるジョゼフも兄のピアノ伴奏者として行動をともにする。だが差別の実態を知ったルースは過激な活動に身を投じるようになり、彼女の息子はヒップホップ・グループの一員になるのだ。
差別撤廃を平和的に訴えた1963年のワシントン大行進と1995年のミリオン・マン・マーチという二大イベントの間に、1965年のワッツ暴動と1992年のロサンゼルス暴動を挟み込んだ構成も見事だ。
白人作家であるレセムとパワーズが黒人との交流を描いたこのふたつの物語からは、差別への怒りはあるものの、来るべきオバマ時代への期待も感じられる。だが当のオバマ政権下の2015年に発表された黒人作家タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』には高揚感の微塵もない。
Ta-Nehisi Coates
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トニ・モリスンから「ジェームズ・ボールドウィンの死後の空白を埋める人物」と最大級の絶賛をされている彼が、この自伝的なエッセイで繰り返し描いているのは黒人が容易に他者(白人)によって身体をたやすく破壊されるイメージとその社会的事実だ。
文中には、大学を中退後に衝撃をうけた曲として、ラッパーのナズが2001年に発表した「What Goes Around」のリリックが登場する。
you say it’s love, it is poison / Schools where I learned, they
should be burned, it is poison.
(お前はそれを愛というけど、それは毒だ / 俺が通っていた学校なんか燃やされ
るべきだ / それは毒だからだ)
『世界と僕のあいだに』によってヒップホップ世代の思想家とみなされるようになったコーツだが、本作の成功が自分の息子に語りかける口語体で書かれていたことにあったことは無視できないだろう。
ちなみにコーツはフィクションも発表しているのだが、それは小説ではない。黒人スーパーヒーロー、ブラックパンサー(来年映画化される)が登場する同名コミックの原作者としてなのだ。いつか彼が書く真にヒップホップ的な小説を読んでみたいと思う。
PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は小説集『あたしたちの未来はきっと』。ほかに『21世紀アメリカの喜劇人』、共著に『ヤング・アダルトU.S.A.』『文化系のためのヒップホップ入門』など。