藤井道人

日々映画を作っていく中で忙殺され、失われていく大切なはずの記憶の数々。本連載は映画監督藤井道人が映画や人、言葉、その瞬間を保管しておくための企画である。「生きていく上で忘れてしまうだろう記憶たちの集積場」をテーマに、様々な出会いを通して、映画が作られていく過程や、映画業界の改善に向かっている様を伝えていく「けむりのまち -Fake town-」。
今回はゲストを招いてのトーク回。連載も3年目を迎えた今、藤井監督の原点にいる人物との鼎談を実施。
相手は藤井作品に欠かせない撮影監督、今村圭佑さんと、第十八回の座談会にも出演してもらったBABEL LABEL代表取締役社長/プロデューサーの山田久人。
膨大にある過去のエピソードを振り返ってもらった結果、トークタイムは過去最長を予定通り記録。というわけで、この鼎談は前後編の2回に渡ってお届けする。
若かったあの頃 すごく悔しい思いをした
ー藤井道人
みんなで7Dを使い倒していた時代が土台にあります
ー今村圭佑
こうして2人が一緒にやっているのはすごく嬉しいこと
ー山田久人
藤井道人(以下、藤井):連載もずいぶん長くやってきたので、そろそろコアな人たちに出ていただこうと思って。やまちゃん(山田久人さん)と今むー(今村圭佑さん)です。2人はこうして話すの久しぶりでしょ?
山田久人(以下、山田):ずいぶん久しぶりだね。今むーならたくさん話すことがあるんじゃないかな?
藤井:出会いでいくと、日本大学芸術学部映画学科で、俺とやまちゃんが大学3年時に今むーが1年生。2個下で同じサークルを作ってきた仲ですね。
今村圭佑(以下、今村):DVカセットを藤井さん家に届けたのが最初なんですよ。春祭の、俺が監督したやつ。
山田:俺たちがいたのはZucchini(ズッキーニ)っていう映画サークルで、1、2年生の上映会をやろうっていうときだったんだよね。班が分かれていて、それぞれに制作していたんだけど、最後に藤井ちゃんのところで一本化するっていう流れだったから、当時1年生だった今むーが3年生だった藤井ちゃんのところにDVカセットを持っていったわけだ。
今村:藤井さん家がグラフィティまみれで、『ここ(サークル)に入るのイヤだなぁ……』って思ったのを覚えていますよ。
藤井:なんでだよ(笑)。
山田:思えば、今もサークルで一緒だった面々と仕事をする機会が多いよね。
藤井:本当に多いね。『イクサガミ』の撮影部にもサークルが一緒だった同世代がいるから、あまり気を遣わなくて済むし。思い返せば、今むーはもともと俺のカメラマンの助手として現場に来てくれてたスタッフだったよね。で、自主映画1発目を制作するとき、一緒にやってきたカメラマンにお願いしようとしたら「長編映画の撮影助手の仕事が決まったから撮れない 」って言われて。『どうしよう』と思って外に出たら今むーがいたから「やってくれる?」って声をかけたら「ハイ」って即答だったんだよ。そこから20年を経て今へ。やまちゃんにいたっては、卒業後にCM制作会社に勤めている間もルームシェアをして、ずいぶん長い期間一緒に生活していたよね。
今村:昔、こんなこともありましたよね。手塚眞さんの現場に山田さんがいて、俺は録音助手か何かで呼ばれることになってノリノリで行ったんですけど、途中で帰りたくなっちゃったから、「お腹痛いんで帰っていいすか」って言って本当に帰っちゃったっていう。あれは思い出す度に、『俺って大学生の頃、相当ダメなやつだったんだなぁ』って自戒しています。今でも現場に大学生が来るじゃないですか。そいつらが途中で帰っても絶対に怒んないようにしているんです。
山田:あれね(笑)。覚えてるよ。こいつダメなやつだなーーーと思った。大先輩もいるのに我慢できないの? って。
一同:笑。

藤井:やまちゃんは今でこそ経営者だけど、もともとは助監督をやったり、学生時代からプロの現場に出ていたこともあったよね。どうですか、あの頃を振り返ってみて。
山田:僕と藤井ちゃんは脚本コースだったんだよね。花形的な感じで監督コースがあって、実際に、お前らは脚本だけやってろよって雰囲気があった。そこに対して、負けちゃいけないと思って、自分たちで作品を作ったり、俺も藤井ちゃんも現場に出ていたことがあったけど、大学の頃に行く現場ってさ、もう、すごくやばい現場が多かったでしょ。
藤井:そりゃそうだよ。学生を使うくらいなんだから。
山田:そうなんだよ(笑)。そういう現場ですごく苦労したし、自分がポンコツ過ぎて向いていないんじゃないかと思ったこともいっぱいあった。このまま自分が映画業界に行けるであろうビジョンなんて何もなかったもの、学生生活を送っていた頃は。
一同:そうだったなぁ。

今村:今思えばわけのわからない撮影をいっぱいしていましたよ。
山田:あの時間は一体何だったんだろう? っていうの、いっぱいあるじゃん。
藤井:俺は学生の頃だけじゃなくて20代もわけのわからない撮影をいっぱいしてたよ。パチスロのDVDを作るディレクターの仕事とか。で、学生だった頃の今むーをスタッフの1人として呼んで撮影してたら、寝てんの。
山田:帰っちゃったり寝ちゃったり。ヤバいやつじゃん!
今村:本当にちょっと……。まぁ、人間としてダメだったんですよ。
一同:笑。
山田:自分的にはいつ頃からちゃんとしてきたの?
今村:それなりの仕事をやりはじめてからだと思うんですよね。
藤井:でも、大学4年くらいではもうめちゃくちゃ撮ってたよ?
今村:バベルでワークショップをやって映画を作っていた時代があったじゃないですか。3ヶ月に3本。
藤井:あるね。
今村:土台としてはあれがけっこう大きかったんですよ。大体5人くらいのスタッフで30分程度の映画を3日で撮るっていう。
藤井:予算10万円くらいでね。で、そのカメラも借りるお金がもったいないからって、みんなで数万円ずつ出して7D(キヤノンのデジタル一眼レフカメラ)とレンズを買って、それを使い倒すっていう。
今村:千本ノック的な感じでしたよね。
藤井:やってたね。あの頃、俺が24歳くらいで、今むーが学生だったでしょ。その頃にお昼ご飯として支給できていたのが“おにぎり2個”っていう。とにかくお金がなかったから。なんなら、ちょっと多く買ってきちゃった若い大学生に「そんなにシーチキンばっか食わないだろ!」って怒ったりしてさ。今じゃ大問題になるよ。
一同:爆。
山田:俺から見てると、あの頃に7Dで作品を量産していたのがめちゃくちゃ重要だと思うの。あの時代は映像業界的にも変革期にあって、まだ映画やCMをフィルムで撮っていたじゃない。そこまでデジタルが認められていなかった時代に、7Dっていう一眼レフで映画を撮ろうぜってなったのは、どういう流れがあったの?
藤井:なんでだっけ? 今むー発信だった?
今村:その、一眼レフカメラで動画を撮れるっていうので、ちょっと業界が盛り上がっていたじゃないですか。スチールレンズを使うから、すごく背景がボケて、単純にいい感じに見えるし、撮影の仕方を解説する本も出ていたので、みんなが「これ、いいじゃん!」って感じでしたよね。それで使いはじめたんじゃないかな。
山田:そこでいくと、2人は一眼レフで撮りはじめた走りでしょ?
藤井:まぁ、そうなのか。時代的にたまたま……。
山田:マッチしていたよね。
藤井:そういえば、昔はボカすのに必死だった(笑)。光量足りなくて、みたいな。
今村:一眼レフって絞りを簡単に調整できるじゃないですか。クリクリって。それまでシャッタースピードや絞りとか、そう簡単に動かせなかったし、そういう感覚じゃなかったんですよね。それをスピーディに操作して、感覚的によければいいというテンション感で撮れるようになったのは、デジタル一眼レフでの撮影が広まってからじゃないかなと。感覚の変化がそこで起こったような気がします。
山田:なるほど、それまではダメと言われていたようなことにも挑戦できるようになったんだ。
今村:はい、それはめちゃくちゃでかかったです。
藤井:今むーには撮影助手期間もあったでしょ? その頃の話も聞きたい。そもそもなんで助手をやっていたのかだとか。
今村:単純にプロの機材のことも知らないし、このままだと大きいことができないと思ってはじめたんですよね。でも、フリーの撮影助手になってしまうと、けっこうお金もらえちゃうから、案件重視になってしまって、藤井さんの映画とかをやらなくなってしまうなと思って。そこで撮影助手を、ご自分の会社で雇ってくれていたKIYOさん(清川耕史)の会社に入れてもらったんです。そこから約2年して卒業し、半年チーフをやっている頃に『7s』を撮っていて、その途中に乃木坂46のMVなどをやりはじめた、という流れでした。あの頃からいろいろと始まった感覚がありますね。あれですよ、ちょうど助手をやっていた時代に藤井さん、『オー!ファーザー』をやっていたんです。
藤井:あれね。当時、俺が26歳で今むーが24歳。スタッフィングのとき、カメラマンに今むーを指名したら、プロデューサーから「そんな若い子にお金預けれるわけないやろ」と(笑)。そういう事情もあり、自分の演出も行き届かない部分があって、ちょっと悔しい思いをした作品になったという。
今村:別に今思えば当たり前なんですけどね。言うても、「誰?」っていう若い子にそんなに大金をポンと出せないと思いますし、今の自分なら同じことを言うかもしれないです。だけど、当時の自分としてはまぁまぁ悔しかったというか、ちょっとムカついちゃったというか(笑)。
藤井:そう、すごく悔しかったのを俺もすごく覚えてる。監督として評価されたり世間に名前が広まっていく理由のもとにあるのは、スタッフと共に作り上げてきた作品があるからなのに、俺だけが現場に連れていかれて、周囲からいろんなことを言われながら現場をこなさくちゃいけないというのは、いろんな意味で辛いものがあった。俺じゃなくてもいいんじゃないかな? って思ったし。しかも、メイキングを撮っていたのはBABEL LABELだからね。俺が現場でボコボコにされているのをバベルの連中が撮るっていう。あれがあったから、その後にもう1回インディーズに戻ってって流れになった。
今村:その件もあったから、早く名前を広めなくちゃいけないって気持ちになったんです。若いからダメだって言われるのを覆すとしたら、誰もが知っているものを撮影している実績が必要だと思って。
藤井:うん。いや、たしかに。
山田:そこでいくと、世間に名前が広まったのはどのタイミングだと自覚しているの?
今村:乃木坂46のMVと、ポケモンのCMの頃だと思いますね。(どれも2014年頃に撮影)そこから急に周囲の反応が変わった気がします。
山田:うん。2人の関係性を俯瞰して見ていて、今だからこそいいなと思うものがあるんだよね。藤井ちゃんもさ、一時期、今むーに気を遣って、お願いしない時期もあったじゃない。
藤井:そうだね。
山田:周りの先輩たちが今むーにオファーする機会が増えてきた頃、藤井ちゃんはあえて今むーという選択をしないで、『オー!ファーザー』以降に積み重ねていったものがあったし、それを真横で見ていたから、こうして今、2人が一緒にやっているのは、ものすごく嬉しい。
藤井:売れちゃったもんで「今村のスケジュールにはもう合わせられない」っていう。そんな時期があったね。
今村:追いつこうと思ったら追い抜いたっていう。
藤井:そうそう(笑)。ところで、やまちゃんが会社辞めたのって『7s』辺りだっけ?
山田:そうだね。『7s』中。会社員をやりながら藤井ちゃんとルームシェアをしていたから。
今村:何歳までシェアしていたんですか?
山田:26歳くらいじゃないかな。もう俺ら、来年で40歳だから、13年とかずいぶんと前の話だよ。
今村:10年ちょっとなんてそんなに前じゃないですよ。
山田:けっこう前でしょ! BABEL LABEL15周年なんて言ってるんだから。
今村:っていうか、15周年ってどのときから数えて、ですか?
藤井:本当にね、あやふやなのよ。とりあえずでキリがいいから2010年にしようってことで。でも、2009年に作った『カノン』にもバベルのロゴを使ってはいるんだけどね。当時は1人で名乗ってたから。
山田:最初にさ。藤井ちゃんがBABEL LABELのロゴをアドビのプレミアで作ったじゃん。ロゴ、変えようって言ったら、原(原廣利さん)がブチギレたやつ。みんなの思い入れがあるやつ。
今村:ああ、緑とか青の丸いのがピョンピョンしてるやつか。
山田:その後、デザイナーに頼んで作ってもらったロゴに<SINCE 2010>って入ってて、それ以降2010年からが公式になったんだよ。
今村:いや、俺が恵比寿のBAGEL & BAGELの写真を撮って、藤井さんに送ったときが、多分BABEL LABELが生まれたときだと思う。
藤井:なんでまた諸説を増やそうとしてるんだよ(笑)。送られてきたの覚えてるけどさ。今も、今むーだけBABEL LABELのことをBAGEL & BAGELって呼んでるもんな。
今村:だって語呂がBAGEL & BAGELでしかないから。
藤井&山田:もうそれでいいよ!
※本連載にて、藤井道人監督への質問を募集。
監督が一問一答形式でお答えするので、
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