毎回、ある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ。 小説「インナー・シティ・ブルース」。第5回は、八重洲が舞台となる。
【あらすじ】
八重洲編の主人公は、アラフィフのビジネス・パーソン、平。 ふだんから根城にしている八重洲地下街の珈琲専門店で、かつていた会社の女子社員、囲間雨(かこいま・あめ)と偶然出会う。平はつい気を許して彼女にここで自分が何をしているのか告白するが……。
金曜の朝6時、八重洲地下街。いつものように俺は、地下街北側の隅にあるトイレの鏡で自分の姿を下から上にむかって確認していた。シューズは、マドラスメンズセレクションのブラウンのタッセルローファー。ブレフでオーダーしたチャコール・グレーのスーツは昨晩白洋舎から受け取ったばかりなので、アイロンがピシッと効いている。タカキュー製のネイビーのネクタイが結ばれているのは、トウキョウシャツコレクションのワイドカラーの白いYシャツだ。胸元からはロクシタンのセドラ オム オードトワレの香りがほんのり漂っている。アラフィフのビジネス・パーソンにしてはくたびれていない、と思う。
仕事道具が収められたエースのアタッシュケースを手に取ると、蛍光灯の無機的な光で照らされた通りへと繰り出す。証明写真コーナーの前を通り過ぎる。少し前まではここで撮った写真を、ステーショナリー45で買った履歴書に貼り付けて、郵便局からせっせと送ったものだ。どこの会社からも面接には呼ばれなかったので、じきに止めてしまったが。でもそんなことはもうどうだっていい。今の俺は絶好調なのだから。
東京駅地下のこの巨大な地下街に張りめぐらされた通りにはそれぞれ名前がある。そのひとつ外堀地下2番通りを南側に進んで、メインアベニューを経由すると、今度は八重洲地下1番通りを東へと向かう。
地下街で一番早く朝を迎えるのはこの東側のエリアだ。ここにあるスターバックスとアロマ珈琲だけが、朝6時30分にオープンするからだ。俺の行きつけはアロマ珈琲の方だ。人間、齢を重ねて行くと、年季の入った空間の方がより落ち着くようになっていく。
昭和45年の開業時から変わっていないであろう木製の扉を開けて、地下にもかかわらず階段でさらに下りて店内へと入る。ウッディな内装が心地よい。開店してまだ数分しか経っていないのにうっすらと煙草の香りが漂っている。すでに何人か客がいるのだ。みんな俺と同年代か年上の男たちだ。
ウェイターにモーニング・セットを注文する。コーヒーからはカフェインを、バター、苺ジャム、あんこを代わる代わる塗ったトーストからは糖分を、ゆで卵からはプロテインを吸収する。頭に栄養がいきわたっていく。戦闘準備開始だ。
アタッシュケースからキタムラで買ったdynabookを取り出す。電源をオンして地下街のフリーWi-Fi「Yaechika_Free」にネットを繋ぎ、現在の資産をチェックする。NZドル/円の予想がまたしても当たった。自己資産は昨日比で62万円増、トータルで9200万円を突破した。日経平均とNYダウをチェックする。日経新聞とウォール・ストリートジャーナルのサイトを斜め読みしながら、証券取引所オープン後のチャート予想と留意点をフランクリン・プランナーに書き出す。そうこうしているうちに、店の中がだんだん混んできた。
気がつくといつのまにか若い女が左横に座っていることに気がついた。どこかで見た顔だ。すると俺の視線に気がついたのか、女がこちらを振り向いた。思わず「ダメちゃん」と口から言葉が出かけたのを誤魔化して慌てて「だぁ、雨ちゃん」と言い直した。
「あ、平さん。おひさしぶりです」
囲間 雨(かこいま・あめ)は営業三課の責任者だった俺のことを覚えてくれていたようだった。
雨ちゃんが三年前の春に我が社に入社してきたときは、社内で大変な噂になったものだ。うちの会社は事務職の女性を全員派遣に切り替えてすでに何年も経っていたのだが、彼女は会長経由の特別なコネで入社してきたのだ。肌が透き通るように白く、黒く大きな瞳をキラキラさせた細身の彼女はいかにも旧家の箱入り娘という感じで、入社の挨拶にうちの部署にやってきたときは、若い連中からどよめきの声があがったものだった。
しかし彼女の栄光は長く続かなかった。世間知らずの雨ちゃんは、OLのことをお茶出しをして昼休みに屋上でバレーボールをしていれば給料がもらえる仕事と勘違いしていたのだ。しかもこれまで一回もアルバイトをしたことがなかったので接客はでたらめ。事務作業はとてつもなく遅い。
困りはてた会社上層部は、彼女のために特別なポジションをこしらえた。総務部広報課ネット担当。一見華やかそうだが、要はホームページに寄せられた問い合わせを、関係部署にメールで転送するだけの仕事だ。しかし雨ちゃんはそれすらもしょっちゅう間違えて社内を混乱に陥れていた。やがて彼女はこっそり”ダメちゃん”というあだ名で呼ばれるようになったのだった。
とはいうものの、見た目だけなら、彼女は超絶可愛い丸の内OLである。顔が整いすぎているせいでアンドロイドがOLのコスプレをしているように見えなくもなかったけれど。
自分の息子とさほど歳が変わらない彼女にみとれてしまった気まずさも手伝って、俺は笑顔で彼女に話しかけた。
「雨ちゃん、元気? 朝めちゃくちゃ早いじゃん。会社は丸の内(むこう)側なのに何でこんなところにいるの?」
「平さん、沼井戸さんってご存知ですよね。4月からあの人が総務部長になったんです。そうしたら営業職が実質7時半出社だから、総務部もその時間には会社に出てくるべきだって言い出して」
俺の宿敵だった同期の名が出てきた。いかにもあいつが提案しそうなくだらないアイディアだ。
「わたしも早出するようになって、こっちに着いてから朝食を食べるようになったんです。でも丸の内側のスターバックスって、会社の人とよく会うから落ちつかなくて。だからこの地下街のお店の方に行くようになったんですけど、今朝行ったら沼井戸さんがいるのを発見して。それで思わずこっちに来ちゃったんです」
「俺は毎朝この時間はこの店なんだよね」
「お住まいは辰巳でしたっけ。今もあそこから通われているんですか?」
「ああ。今朝も有楽町駅からここまで地下道を歩いてきた」
「有楽町から?」
「あれ、知らないんだ。東京駅と大手町、二重橋、日比谷、有楽町、銀座、東銀座ってぜんぶ地下で繋がっているんだよね。みんなここいらへんの地下鉄の乗り換えには苦労しているけどさ、実は歩いて行けちゃうっていう。有楽町線からここに行く方法を教えようか。有楽町駅にビックカメラに面した地下改札があるんだけど、そこから国際フォーラムの建物内に入るわけ。あの建物には反対側にも出入り口があって、その先から壁がレンガ貼りの地下道が伸びているんだ。そこがちょうど三菱一号館やKITTEの地下にあたるんだよ。で、ひたすら歩いていくと東京駅の丸の内南口の地下に辿り着ける。うちの会社の地下出入口のすぐそばだね。あとは丸の内北口まで北上して、八重洲側への自由通路、大丸の地下と通り抜けてここまで来ればいい」
「今のお勤め先は八重洲なんですか?」
雨ちゃんが自分の席にきたトーストを両手で持って頬張りながら尋ねてくる。取り繕うのは簡単だ。でも今日はなんだか機嫌がいい。雨ちゃんを驚かせたくなった。もし彼女が噂を広めたとしても会社の人間は信じないだろう。
「勤め先はここなんだ」
「え?」
「家族には会社を辞めたことは言っていない。じつは毎朝ここまで通勤してデイトレをやって稼いでいるんだ。沼井戸との一件で再就職が難しくなっちゃったしね。でも今ではあいつに感謝したい気持ちだよ。ここでデイトレを始めてみたら連戦連勝なんだ」
俺はdynabookのディスプレイに映し出された自分のトータル資産額を雨ちゃんに見せた。予想通り彼女が驚いてくれたのでニンマリする。
「もうじき“億り人”なんだよね」
「一日中、ここにいらっしゃるんですか?」
「そう、いればいるほど運がむいてくるから、ふたつの願かけをするようになったんだ。ひとつめは、自分のものはぜんぶこの地下街で買うこと。ふたつめは絶対地上には出ないこと」
「そんなこと可能なんですか?」
「半ばシャレだったけど、やってみると快適でさ。すぐそばにあるエリックサウスって知ってる? 地下街なのに本格的な南インドのカレーが食べられるんだ。カーブ・ド・オイスターの牡蠣も絶品だし。すぐ先には大丸のデパ地下があるし、東京ラーメンストリートでは日本中のラーメンを食べ比べられる。それにさっきも言った通り、銀座まで地下で繋がっているから三越やGINZA SIXのデパ地下にも行けるんだ」
「美味しそうですけど、太りそうですね」
「大丈夫。大手町の一番北側にフィナンシャルシティっていうのがあるのを知ってる? あそこの地下にSPA大手町ってスパ兼ジムがあるんだ。あんな一等地にありながら、街中のジムの会費くらいのお金でジムとサウナとプールを使い放題なんだ」
「体には注意しないと。あまり地下に居続けると日光に耐えられない体になってしまうと聞いたことがありますよ」
極端なことを言う子だ。
「ここには内科や眼科、歯医者もあるし、マッサージ関係はDr.ストレッチやラフィネとそれこそ選び放題。体の調子は過去最高にいいよ」
「行けないのは映画館くらいなんですね」
「美術館はあるよ。国際フォーラムの地下にある相田みつを美術館」
雨ちゃんが微笑んだ。
「まあ、億り人になれたらこんな生活、止めるつもりだけどね」
俺がそう言うと、雨ちゃんの顔から笑みが消えた。そして小さな声でぼそっといった。
「平さん、嘘をついていますね」
「は?」
「平さん、辰巳からここまで通ってなんかいませんよね。ずっとこの地下街に住んでいるんでしょう。こんな生活は今すぐ止めるべきです」
雨ちゃんの推理通りだった。
一年前、経営企画部次長だった沼井戸は、AIを用いたネット営業を導入するかわりに俺の部署を解体しようとした。俺はカッとなり、思わず奴を殴ってしまった。会社からは自己都合扱いの退職にしてはもらったものの実質クビだった。真相を知った妻は怒り、俺は辰巳のタワーマンションから着の身着のままで追い出された。息子ともそれっきりだ。
一旦は広島の実家に世話になろうと思って、新幹線に乗りに東京駅まで来た。でもこの地下街で夕飯を食べ、喫煙所で一服しようとしたところで、偶然見てしまったのだ。警備員が第3班防災用品収納庫と書かれた扉のテンキーを押している手元を。
警備員が去ったあと、テンキーを押してみたら扉はあっさり開いた。中には人が寝られるくらいの十分な奥行きがあった。あとは想像の通り。俺は八重洲地下街の住民になったのだ。
「よく分かったね……」
「姉が豊洲に住んでいて、たまにそこに泊まっているんですよ。だからわたしも有楽町駅からここまで歩いてくることがあるんです。でも国際フォーラムを通ってここに6時30分に行くことはできないんですよ。あそこの地下通路がオープンするのは7時なので」
「嘘をついたことは謝るし、今の生活が普通じゃないってことは自分でもわかっている。でも君に俺を止める権利はないんじゃないかな」
雨ちゃんは小さなため息をついた。そして手にしたスマホで俺のdynabookのディスプレイを撮影すると、俺の顔に突き出した。
そこには立ちあがっているはずの資産管理ソフトもデイトレのソフトも映っていなかった。代わりに映っていたのは、緑地のバックに7列に並んだ20枚ほどのトランプだった。遠い昔、こんな画面を見たことがある……ひょっとしてこれは。
「ソリティア!」
「その通りです。平さんはデイトレで稼いでいたっておっしゃっていましたよね? でもそれは幻覚なんです。実際は一日中ソリティアをやっていただけで、退職金はどんどん減っていっている」
慌ててdynabookを見直した。信じたくない。だが映っていたのはやはりソリティアだった。全身の力が抜けていく。俺は億り人どころか精神病院送られ人だったんだ!
「なんでこんなことに……くそっ、失業のショックで頭がおかしくなっていたのかな」
雨ちゃんはパニクる俺をなだめるように説明しはじめた。
「大丈夫、平さんは狂っていません。八重洲地下街特有の現象が起きただけですから。ここって時間を潰すには最高の場所だけど、人によっては危険な場所なんです」
「危険?」
「ここから地上に出たらすぐのところに、みずほ証券の大きな電光掲示板があるじゃないですか」
「前は新光証券だったけどな。株式が暴落すると、必ずといっていいほどテレビ局があの前で呆然としている人を取材している」
「あそこでそうしている人たちが一番多かったのって、いつだかご存知ですか?」
「そりゃバブル崩壊のときだろうな」
「わたしが生まれる前の話ですけど、大手町や八重洲の金融系のベテラン営業マンが随分と職を失ったと聞いています」
「そうそう、うちの会社もそういう人たちの出向先になっちゃってさあ、燃え尽きた灰みたいになっていた年寄りを押し付けられて大変だったよ。あの人たちって対面営業しかやっていないから、報告書作成とか全然できないわけ。当時は富士通のオアシスっていう箱型の大きなワープロだったけど、作業が遅いのなんのって! で、俺が入社してから6年目くらいかな。ウィンドウズ95のパソコンが全社員に支給されたんだけどさ、あの人たちはワードもエクセルも覚える気もなくてさ、一日中ソリティアをやっているだけで、ほんとウザかった……ああっ!」
「本当はその人たちもワードやエクセルの操作方法を覚えて会社に貢献したかったはず。でも親切に教えてくれるはずの若手社員たちの対応が冷たくて、ソリティアで暇潰しするしかなかったんじゃないでしょうか」
「当時の若手社員……バブル入社組の俺たちのことか」
雨ちゃんはにわかには信じがたいことを真顔で言った。
「ベテラン営業マンの方々の打ち砕かれたプライドや悲しみが、バブル崩壊の象徴の場である電光掲示板に集まっていき、やがて悪霊化して地下街に沈殿していったんです。それがたまに平さんの世代の人に取り憑いて悪さをするんですよね。ここには、一見ノマドワークをしているようにみえるけど実はソリティアしかやっていない人たちが何十人単位でいるんですよ。今の時代におかしいでしょう? 実は全員悪霊に取り憑かれているんです」
「俺たちは復讐されていたってわけか。この地下街に引き止められていたのもそのせいだったのか……」
「平さん、顔色がとても悪いですよ。体がかなり弱っているんじゃないでしょうか。なるべく早くここを立ち去って一旦東京から出られた方がいいと思います」
俺はうなずくと、急いでアロマ珈琲の勘定を済ますと雨ちゃんと一緒に外に出た。そして早足で八重洲北口へとむかった。出社する彼女とはここでお別れだ。
「雨ちゃん、本当にありがとう。でも何でそんなことにくわしいの?」
彼女は美しい顔を曇らせて言った。
「家業っていうか、代々の習い事っていうか、そんな感じなんです。それが嫌で仕方がなかったから会社に就職したんですけどね。というわけで、ダメOLをやってきます」
雨ちゃんは悪戯っぽくそう言うと、お辞儀をして丸の内方面に繋がる自由通路へと去って行った。あの子、自分のあだ名を知っていたんだ。
彼女が人波の中に消えていくのを見届けると、俺はひさしぶりに東京駅の構内に足を踏み入れた。自動販売機で7時10分 博多行きののぞみの切符を買う。新幹線の改札を目指して歩いていると見慣れた後ろ姿が見えた。沼井戸だ。きっと大阪支社への出張だろう。肩を叩いて奴が振り向いた瞬間、俺は顔を狙って思いきって殴った。
「いてえええ! 平、また俺を殴るのかよ!」
沼井戸の悲鳴を背中に俺は新幹線のホームへのエスカレーターをのぼっていく。これですっきりした気持ちで里帰りできる。しばらく地元で休んで、なんでもいいから仕事を見つけよう。そして妻に謝ってやり直すことを提案しよう。
ホームにすべりこんできたのぞみに乗り込んで窓際の席に座る。東京の景色が輝いてみえた。しばらくさよならだ。電車が動き始める。俺は窓に顔を近づけた。やはり陽の光は地下街の蛍光灯と違って気持ちがいい。でも何かが焦げるような匂いがする。しばらくして俺はようやく気が付いた。俺の顔や手先の皮膚が陽に当たって崩れて、灰のように空中に流れだしていたのだ。
「八重洲編:ゴーイング・アンダーグラウンド」 了
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』。ほかに小説集『あたしたちの未来はきっと』、『21世紀アメリカの喜劇人』、共著に『ヤングアダルトU.S.A』など。また、EYESCREAM本誌でもスクリーンで活躍する気になる俳優たちを紹介していく『脇役グラフィティ』が大好評連載中。
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Twitter : @machizo3000