作品が生まれ、シーンとして広がっていくまでの裏側には無数の判断と選択、そしてそれを担う人たちの仕事がある。「BEHIND CULTURE」は、KDDI「au Short」サポートのもと、音楽・映像・ファッション・アートといったカルチャーの現場で、その“裏側”を支えてきた担い手たちに光を当てる連載企画だ。職業や肩書きの紹介ではなく、思考や判断の基準、そして次の時代のカルチャーをどう見ているのか。執筆は、カルチャーのさまざまな側面に光を当てるジャーナリスト/研究者の竹田ダニエル。
日本武道館や帝国劇場、8,000席規模の大ホール──。かつて小規模な空間で演じられるのが常識だった「朗読劇」の概念を塗り替え、独自の表現文化としてエンタメ界に確立させた第一人者、藤沢文翁。
イギリスで演劇を学んだ彼がたどり着いたのは、西洋の朗読文化と日本の伝統的な「話芸」、そして世界に誇る「声優文化」を融合させ、観客の想像力を極限まで引き出す革新的なスタイルだった。あえて多くを可視化せず、生身の人間の“声”に身を委ねる体験は、あらゆるエンタメが手元で消費される現代において、どのような意味を持つのか。
トップ声優たちとの化学反応から、「朗読劇用の台本」という発明、そして劇場という枠組みを超えていく未来の構想まで。「BEHIND CULTURE」第9回は、肩書きを削ぎ落とした先にある“劇作家”としての思想とともに、変貌を遂げてきた「朗読劇」というカルチャーの現在地を紐解く。

──まずは、「藤沢朗読劇」が生まれるまでのところから伺えればと思います。藤沢さんはイギリスで演劇を学び、その後、日本で独自の朗読劇のスタイルを築き上げてこられました。そもそも朗読劇という表現に可能性や魅力を感じたきっかけは何だったのでしょうか。
藤沢文翁:可能性というよりも、いろいろな「物語の出し口」のひとつかなと思ったんですよね。西洋では朗読って結構当たり前にあって、例えばクリスマスに子どもが本を読んだり、小説家が本屋さんで朗読会を催したりすることもよくあります。
一方、日本には古代から落語や常磐津、義太夫、浪曲など、言葉だけで想像させる「話芸」の文化がもともとあります。そこに、ひとりで何役も演じられるような声優という文化もある。これは合わせない手はないでしょう、と。そういうところに魅力を感じました。
──イギリスで演劇文化を経験したうえで、日本の落語や講談、声優文化などを取り込みながら現在のスタイルに至ったのかなと思います。「藤沢朗読劇」と呼ばれるものが確立された、とご自身で感じた瞬間はありましたか?
藤沢文翁:一番最初は、『ヒプナゴギア』という作品を山寺宏一さんたちと一緒に作ったことです。まず、それが「いけるかもしれない」と思ったファーストステップでした。
次のステップが、シルク・ドゥ・ソレイユが専用劇場での公演を終えて、舞浜アンフィシアターがオープンしたときです。「ここで何かやりませんか」という招待状が来て、演劇業界、エンタメ業界のいろいろな人たちがアンフィシアターへ行き、それぞれがあの場所を見ながらいろいろな夢を見たと思うんです。
僕は、あそこはある意味サーカス小屋だと思ったんですよね。そのサーカス小屋で朗読劇を成功させられるかどうか。それが、今後日本でどれだけ巨大なキャパシティで朗読劇を上演できるかを占う、ひとつの賭けだと思ったんです。
アンフィシアターは大体2,000席くらいだったと思いますが、そこで朗読劇が成功できなければ終わりだと思っていました。僕がおそらく最初にアンフィシアターで朗読劇をやったと思うんですけど、それが一番大きな賭けでした。そこで満員御礼になり、評価もいただけた。それが僕にとって一番大きな朗読劇の転機だったと思います。
もちろん、『ラヴ・レターズ』のような大先輩は日本にもいました。もともとニューヨークで上演されていた、ふたりだけの往復書簡で繰り広げられる物語で、とても素晴らしい作品です。ただ、それまで朗読劇というのは、パルコ劇場のような、いわゆるそれほど大きくない場所でやるものだという感覚があったんですよね。
今では8,000席規模の劇場や、日本武道館、帝国劇場など、いろいろなところで展開させていただいています。だからこそ、その最初のきっかけになったのは、僕の中では「2,000」という数字と、それだけのお客さんを引きつけることができるかどうかだったと思います。
──劇作家、演出家、朗読劇原作者など、さまざまな肩書きをお持ちですが、その中で一番しっくりくるものは何でしょうか。
藤沢文翁:一番外せないのは「劇作家」という肩書きですね。もちろんテレビの脚本やゲームも今まで作ってきましたし、肩書きはその都度増えていくんですけど、一番最初に自分の作りたい物語がある。それはとてもアナログなものなんですよね。
「脚本家」と名乗ると、デジタルの仕事も含めてすべてが入ってくる。僕は本来、アナログな世界、舞台の世界から始まったということを忘れないためにも、全部裸にしていけば根底にあるのは「劇作家」というひとつの肩書きなんだろうなと思います。

──そもそも「朗読劇とは何なのか」というところも伺いたいです。藤沢さんの朗読劇をまだ観たことがない人から、「演劇と朗読劇は何が違うんですか?」と聞かれたら、どう説明しますか?
藤沢文翁:「普通の演劇ではできないことができるのが朗読劇」と答えると思います。
例えば、もちろん舞台で人を浮かせることはできます。ワイヤーアクションもありますし、お金をかければ舞台でもいろいろなことができます。でも、お客様の想像力だけを使えば、ドラゴンを突然目の前に現すこともできるし、登場人物が空を飛び回ることもできる。
僕は『シェーヴルノート(Chèvre Note)』という、フランスの百年戦争を扱った魔法の物語もやってきました。100年も続いたイングランド対フランスの戦いの光景すら、一瞬にしてお客様の脳裏に焼き付けることができるんです。
もうひとつ、少し技術的な話をすると、普通の舞台では役者さんが歩き回るので、照明や特殊効果、炎、煙、爆発、水などを設置できる場所には制約があります。でも朗読劇、特に僕の場合は朗読者が動かないので、そういったものをかなり設置できる。本来の舞台では見ることができない映像や絵柄を見せることができるんです。
だから先ほど言ったように、「普通の演劇ではできないことができる」というのが、僕が思う今の朗読劇ですね。
──映画や映像では世界を視覚的にすべて見せることができる一方で、朗読劇では観客自身が声を手がかりに、頭の中で景色や人物を作っていきます。現代において、あえて「見せない」表現だからこそ生まれる面白さは何でしょうか。
藤沢文翁:それぞれのお客様が、自分なりの答えを持って帰れることだと思うんですよね。
映像技術はどんどん進歩して、本当に目の前で行われているかのようなことまで可視化できるようになりました。でも例えば、「とても美しい男性がここにいます」と言ったとき、美しいと思う男性は人によって違うじゃないですか。「宮殿」という言葉を使ったとしても、それぞれの人が思い浮かべる宮殿がある。それはお客様だけの頭の中にある宝物で、それを持って帰っていただける。
映像がどんどん進化していく一方で、もともとはすべての人のイマジネーションが根底にあったわけです。映像だってそうですよね。
だから朗読劇では、お客様自身もアーティストというか、クリエイターになる。その人の想像力でしか作ることのできない映像や物語を作って、それをお土産として持って帰っていただける。そこが一番の魅力であり、面白さなんじゃないかなと思います。
──声優の方々との出会いについても伺いたいです。その後の藤沢さんの作品に大きな影響を与えたと思うのですが、初めて山寺宏一さんの芝居や声を間近で体験したとき、どんなことに衝撃を受けましたか?
藤沢文翁:これは山寺宏一という存在に出会った人ならみんな感じることだと思いますし、出会っていない方もおそらく察すると思うんですけど、「何、この人。人間?」というのが最初ですよね(笑)。
本当に、ひとりの人間からこんなにたくさんの声が出るのかな、というのが最初に驚くことなんです。でも深く付き合って、一緒に作品を作っていくと気づくのは、それを単に音として出しているわけではないということ。すべての声に、ちゃんと魂が宿っているんですよね。
山寺宏一さんが単に「いろいろな声を出せる人」で終わらず、いろいろな作品から「山寺さんに出てほしい」とこれだけ引っ張りだこになっているのは、七色の声に七つの魂を乗せられる人だからだと思っています。その出会いはすごく衝撃的でしたね。
──林原めぐみさんをはじめ、多くの声優の方々と長く作品を作られています。演出家として接しているからこそ見える、「この人のここがすごい」という部分はありますか?
藤沢文翁:オンとオフがすごすぎるんですよね。例えば山寺さんは、これは一般的にも知られている話だから言っちゃいますけど、あれだけ才能があって、あれだけ人気もあるのに、本人はめちゃくちゃ自信がないんですよ。だからすごく努力をする。
本番までに台本を読み込んできてくださるんですけど、本番当日に台本をめくってみると、誰よりもボロボロで、誰よりもチェックが入っていたり、はてなマークが書かれていたりする。山寺さんだけかと思ったら、林原めぐみさんや大塚明夫さんたちも、そういうことをしていらっしゃるんですよね。
林原めぐみさんが言った言葉をそのまま引用すると、「このエンタメの世界で成功するのは、才能と努力と、あとよくわからない何か」だとおっしゃっていたんですけど、三者三様に、その「よくわからない何か」を持っている。そして、その中には不思議な努力があるんですよね。
山寺さんはこれをする、林原さんはこれをする、大塚さんはこれをする、というようにみんなそれぞれ違っていて、そこがとても面白いです。
──演者の方の芝居によって、藤沢さん自身が書いたキャラクターの解釈を覆されたり、「自分が書いた以上のものになった」と感じたりすることもありますか?
藤沢文翁:それもしょっちゅうです。最初は漠然としたイメージで書くんですよね。僕は小説家ではないですし、舞台はみんなで作り上げるものなので。音楽があって、衣装さんがいて、美術さんがいて、特効さんがいて、照明さんがいて、そしてもちろんセンターには役者さんがいる。
だから完全に僕が思った通りのものを作ることは不可能なんですよね。むしろ化学変化を楽しめる人じゃないと、生の舞台の演出はできないと思うんです。僕はいつも、そうやって驚くことを楽しみながら作っています。
特に、僕は男性ですけど女性のキャラクターも作らなければいけない。そのときに、女優さんが作ってきた女性キャラクターに僕の言葉が憑依した瞬間、「なるほど、こういう意味合いになるのか」と気づくことが毎回ありますね。
──現在の演劇では、「この作品を観たい」という動機だけではなく、「この声優、この俳優を観たい」という“推し”をきっかけに劇場へ足を運ぶ方も多いと思います。いわゆる「推し活」の広がりによって、演劇や朗読劇の観客、あるいは作品の作られ方は変わったと思いますか?
藤沢文翁:推し活って、とても素晴らしいものだと思っているのと同時に、日本独自のものだと思うんですよ。もちろん英語で言えば「ファン」なんですけど、ファンは「好き」という意味ですよね。でも日本の推し活の場合、人生をかけてというと大げさですけど、その人を応援する、サポートする。日本古来からあった「谷町」というものが細分化されてきたような気がするんです。
昔は歌舞伎でも能楽でも相撲でも、谷町と言われる人たちがいて、個人でその人たちを支えていた。でも今は、みんなでひとりの人を支える。それが日本の推し活だと思います。
僕は歌舞伎を題材にした話や、オペラ、19世紀のロンドン、先ほど言った百年戦争など、歴史上のいろいろな場所や文化を脚本や演出に落とし込むんですけど、僕の物語を観たことをきっかけに、「歌舞伎を観てきたよ」「お能を観てきたよ」というファンレターをいただくことがとても増えています。
特に、僕みたいな変わった朗読劇を作っている演出家、劇作家の舞台に出てくださる声優さんたちは、とてもいい意味で貪欲で、新しいものにたくさん挑戦するんですよね。そうすると、推し活をしている皆さんは、その人について新しい世界へ行くじゃないですか。
僕は最近、能楽の理事もやっているんですけど、お能と声優さんのコラボレーションのような企画も増えています。そうすると、推している声優さんのおかげで能の世界を知ることもできる。いろいろな文化が広がっていくんですよね。
推し活の対象になっている人が興味を持っている分野へ、みんながどんどん引っ張られていくことで、いろいろな可能性が広がっていく。ただの推し活だけでは終わらない、文化を広げていく根底的なエネルギーのようなものを、最近はすごく感じます。
──人気の俳優さんや声優さんが出演することで初めて劇場へ来る方がいる一方で、最終的には作品そのものを好きになってもらうことも重要なのかなと思います。「人を観に来てもらうこと」と「作品を観に来てもらうこと」の関係について、作り手としてどう考えていますか?
藤沢文翁:僕は基本的に、本当に簡単なことを言ってしまうと、お客様が楽しんでくれていれば何よりなんですよね。
例えば、そこに出ている俳優さんが僕の作品に出て楽しんでいる。それを見て、そのファンの方も楽しんでいる。それが一緒になれば一番いいなと思っているので、あまりそこを分けて考えたことはないんです。

──次に、スマホ時代に「なぜ劇場へ行くのか」ということを伺いたいです。NetflixやYouTube、TikTokなど、家にいながら無限に近いエンタメを楽しめる時代です。一方、劇場ではスマートフォンから離れ、ひとつの物語に何時間も身を委ねる。人がお金と時間を使い、わざわざ同じ時間に同じ場所へ集まる「劇場」には、どんな価値があると思いますか?
藤沢文翁:そもそも人間の本質って、不便なことが好きなんだと僕は思うんですよ。例えば、家で電子レンジでチンすればご飯を食べられるじゃないですか。でもわざわざ山に登って、そこで焦げるかもしれない飯盒炊爨をして食べる。成功する日と失敗する日の両方を味わって、「今日は成功した」と喜ぶ。そういう山登りが好きな人もいますよね。
家でチンして、テレビを観ながら楽しむ。それも別に悪くはない。人間には両面があって、いつでもどこでも楽に楽しめるものも必要だけど、少し苦労して楽しむ「不便なもの」にも魅力を感じる。それは結構普遍的に人類が持っている感覚だと思うんですよね。
劇場って不便なんですよ。その日に行くために時間を調整しなければいけないし、体調管理をして「風邪は絶対に引いちゃダメだ」と思う。劇場に入ったら空調は変えられないので、人によっては暑いし、人によっては寒い。暑がりの人はうちわを持ってこなきゃいけないし、寒がりの人は膝掛けを持ってくる。
場所によって見え方も違うし、その日の役者のコンディションによって、いい日と悪い日もある。そういう、とても不便なものに、人は何か手触りや懐かしさを感じる。山に登って飯盒炊爨をするようなもので、演劇にもそういう不便さがあるからこそ、「人間が人間でいられる」ような良さがあるんじゃないかなと思います。
デジタルなものが発達したから演劇がなくなるとか、反対に演劇のほうが優れているとか、そういう問題ではない。進化していくものと、何かノスタルジックなもの。その両方が存在していないと、人は人でいられないのかなという気がしますね。
──確かに、YouTubeで観て興味を持って、そこから劇場へ行くというパターンも今は多そうですね。
次に、「声を届ける」ということについて伺いたいです。今はイヤホンをつければ、ポッドキャストや音楽、動画などを通して一日中誰かの声を聞ける時代です。それでも劇場で人間の生の声を身体で受け取ることには、どんな特別さがあると思いますか?
藤沢文翁:今言った答えと少しかぶるんですけど、生だと役者さんが噛んだりもする。そこで「あ、いつもアニメやテレビで見ているあの人って、生身の人間として存在するんだな」と感じられるというのがひとつあります。
もうひとつは、劇場でそれを聞いたとき、反応しているのが自分ひとりではないことです。ポッドキャストを聴きながら電車に乗ることもできるし、いろいろなことができます。でも劇場では、隣の人が突然泣き始めたり、笑い始めたり、息を呑んだりする。100人、1,000人、8,000人。その規模の人々の声や息遣いが生み出す客席の空気感は、ポッドキャストやイヤホンでは味わえない。それもひとつの魅力なのかなという気がします。
──録音された声と、その瞬間に舞台上から発せられる声には、どのような違いがあると考えますか?
藤沢文翁:「エラー」をどう楽しむか、という話になると思います。録音されたものはいくらでも調整できます。例えば「2日目のほうがこのシーンはよかったよね」となったら、2日目のものを持ってきて編集しても誰も気づかない、ということもできる。
でも舞台の上では、同じ人間が超人的なことをやっている一方で、噛んだりする。その瞬間に「あ、この人も生身の人間なんだな」と思える。
アナログの良さって、人間のエラーだったり、失敗だったり、あるいは普段以上の130%を出せる日があったりする、そういう非常に不安定なところにあるんじゃないかなと僕は思います。
──劇作家という立場から見て、AIが業界に入ってきていると感じる部分はありますか?
藤沢文翁:脚本の世界では、まだ僕はあまり感じたことがないです。というのも、普通の話を作っても、先ほど言ったように、お客様はわざわざ高いチケットを取って遠くまで足を運んでくださらないんですよね。だから、どこかに奇想天外な発想を持って、それに固執して書き始めるというのが、現段階での僕の脚本の書き方なんです。
コンサル業務など、ほかの業態にはもう本当にAIが入ってきていると思います。僕は絵を描くことができないんですけど、美術プランを考えるときに生成AIを使って、「こんな感じのイメージです」と伝えられるようになったのは、すごくいいなと思います。ただ、物語に関して言えば、現段階ではAIにはまだ作ることができないかな、という感じがします。
僕もたまにAIで遊ぶんですけど、「まだその程度なのね」と思うことはあります(笑)。よくある話を、お手本通りにうまく作った、脚本学校の1年生が書きそうなものならすぐ作れる。でも「そこからもう一歩、お客さんに大どんでん返しを仕掛けて」と言っても、まだそこまでは来ていないのかなという気がしますね。
──個人的な興味でもあるのですが、物語を書くとき、どのように書き進めていくのでしょうか。また、どんなものからインスピレーションを受けていますか? 映画や歌舞伎、音楽、西洋の作品など、さまざまな文化に触れてこられたと思います。
藤沢文翁:インスピレーションについて「降りてくる」という言葉を使う人もいますけど、僕の場合は、自分の中にあるものからしか湧かないと思っています。
僕の頭の中のイメージでは「知識」という大きな木があって、その木が枝葉のように分かれているんですよね。西洋美術史だったり、古典演劇だったり、数学、物理、音楽だったり、いろいろなものが「知識の大樹」のように頭の中で枝分かれしている。そこに電気信号のようなものが走って、何かの葉っぱにたどり着く。それがインスピレーションで、その過程が物語だったりする。
もう少しわかりやすく説明すると、「マジカルバナナ」ってあったじゃないですか。あれを瞬時に頭の中で行うのが、クリエイティブなときの僕の頭の中なんです。「バナナといったら黄色」「黄色といったら……」と続けていく。その先に、例えば「黄色い声」という言葉が出てくるかもしれない。
「黄色い声」というのは、もともとはチベット密教のお経の読み方に由来していて、当時は音符がないので、色分けによって高い音や低い音を示していた。その一番高い音が黄色だった。それがなぜ一般的にみんなが使うようになったのかと考えていくと、昔は今より仏教と一般の人々の距離が近くて、お寺の和尚さんと檀家さんが話す機会があり、そういう知識を得る機会も多かったのではないか……というようにつながっていく。
そうやって頭の中で「マジカルバナナ」をしていくんですよね。その先に、物語がピシッと出来上がる。そんな感じです。

──ここからは、今の日本の朗読劇文化の現在地について伺いたいと思います。この十数年で、日本の朗読劇文化はどのように変わったと考えていますか?
藤沢文翁:すべての文化においてそうだと思うんですけど、「求められていること」と「不便さ」、このふたつが新しい文化を生むんですよね。
例えば、フィルム・ノワールと呼ばれる白黒映画の技法があります。当時はみんなお金がなかった。その限られた状況の中で、いかに映画を格好よく撮るかを考えて、ローキーライティングや影をうまく使うようになり、フィルム・ノワールというものが生まれていった。日本の朗読劇も、ある種そういう「不便さ」から生まれた部分があると思います。
まず、日本で舞台にかけられる予算は、アメリカやロンドンなどと比べると少ない。その中で朗読劇は、衣装を何度もチェンジする必要がなかったり、セットもそれほど変えなくてよかったり、稽古期間も含めて、低コストとまでは言いませんけれど、一般的な演劇と比較すればコストパフォーマンスよく取り組めた。それが、今こうして朗読劇が増えてきている理由のひとつだと思います。
ポジティブな面で言えば、日本には声優文化がある。これは僕は世界一だと思っています。他に追随を許さないほど、日本の声優さんたちは高い技術を持っている。それに加えて、彼らが持っているファンの数、集客力がある。そういったものが総合的に注目されて、今の朗読劇ブームにつながっているんじゃないかなと思います。
──海外と日本では、朗読文化そのものの成り立ちもかなり違うのでしょうか。
藤沢文翁:朗読に関して言うと、これは一概に言うと国語の先生に怒られちゃうと思うんですけど(笑)、日本の小説や文学って、黙読をベースに作られていることが多いんですよね。
漢字の美しさもそうです。例えば同じ「みせる」という言葉でも、どの漢字を使うかによって意味が変わる。その組み合わせの美しさを含めて、文字から来るイマジネーションによって日本人は読み進めていく。それが日本人にとっての「読む」ということなんですよね。
だから、朗読もとても黙読に近いものがある。おそらく皆さん、小学校や中学校で立たされて教科書を読んだとき、自分の番が来るのが嫌だった記憶があると思うんです。それは結局、どう読んだらいいのかわからないということが多かったからだと思うんですよね。黙読文化の国で朗読をする、ということだったと思うんです。
対して、例えばイギリス文学は音読を前提に書かれています。シェイクスピアもそうです。それこそラッパーのエミネムの韻の踏み方とシェイクスピアのソネットには、実はすごく似た部分がある。声に出して言って、それを聞いたときに気持ちがいい、ということが文学の根底にあるんです。
そこが、日本と、イギリスやフランスを含めたヨーロッパの文学の違いなのかなという気がします。声を発さない、黙読の文化からできたものと、人に聞かせることを前提にした文化。その違いですよね。
──そこから、藤沢さん自身はどのように「朗読劇のための表現」を作っていったのでしょうか。
藤沢文翁:ほかの朗読劇を僕は実はあまり観たことがないので、日本の朗読劇全体については言えないんですけど、僕が作ってきたものに関して言うと、「朗読劇用の台本」を作ったんですよね。
例えば「箸」と「橋」のように、イントネーションをちゃんと聞かないと聞き逃してしまうような言葉はなるべく排除したり、倒置法や言葉のインパクトの置き方を組み立てたりして、朗読劇用の台本というものを作りました。ある意味、これは発明品でしたね。
なぜそんなことをやろうと思ったかというと、ナレーションを排除していかにテンポよく、目の前で、それこそ落語や講談の戦争のシーンのようなスピードで頭の中に映像が入ってくる朗読劇を作れるかを考えたからです。
ただ単に小説を読むだけでは、そのスピード感や、イメージがお客様の頭の中にスポーンと入っていくような感覚を得ていただくことができないと思った。だから作ったのが、「朗読劇用の台本」ということになりますね。
──朗読劇というジャンル自体がかなり大きくなってきたと思います。逆に、ジャンルが大きくなったからこそ感じる課題はありますか?
藤沢文翁:これはすべてのアートにおいてそうなんですけど、いい意味で今は、また新しいステージへ行くための「玉石混交」の時代になってきていると思います。
とても素晴らしい朗読劇が生まれてきている反面、「低コストだからやってしまおう」という朗読劇も増えてきている。今、すべての朗読劇が素晴らしい環境にあるかというと、やはりそうではない。
本当に先ほどと同じ言葉を使いますけど、玉石混交の世界がある。でも、それらがぶつかり合いながら切磋琢磨して、自然淘汰されて、最終的にすごくいい「朗読劇業界」のようなものができてくれればいいなと思っています。
──10年前には想像していなかった景色も、きっとあるのかなと思います。ここからの10年で、朗読劇という表現をどのように発展させていきたいですか?
藤沢文翁:10年前から想像していなかったというより、僕からすると、途中でコロナがあったこともあって、今のポジションにいること自体が若干遅いイメージなんですよね。もっと早い段階で到達していたかった場所ではあります。
日本って、もともと劇場の数が少ないうえに、今はいろいろな改装工事などもあって、劇場そのものが減ってきている。どんどん上演できる場所がなくなってきているんですよね。
そういう計画については結構前から情報が入っていたので、僕の中では、演出家のピーター・ブルックの言葉をそのまま借りれば「Empty Space=何もない空間」という考え方がずっとあります。朗読劇は、会場を選ばないんじゃないかとずっと思っているんです。詳しくはまだ言えないんですけど、これからはもっと自由に、会場ではない場所を会場として、みんなが想像もしないような場所で朗読劇を行う。早くそのステージに行きたいなと思っています。
──最後に、創作について伺いたいです。これだけ多くの物語を書き続けてきた今でも、「これを書かなければいけない」と衝動的に感じるのは、どんな瞬間でしょうか。
藤沢文翁:「書かなければいけない」というより、「書きたい」という気持ちが一番強いです。マーケティングやアンケートでお客様の反応を目にする機会はもちろんあります。でも何をおいても、まず僕がいて、作曲家の村中俊之がいて、スタッフやプロデューサー陣がいて、みんなが「この話、面白い」「作りたい」と思えることが根底にないといけないと思っています。その一番最初の「この話を作りたい」は僕発信なんですよね。
自分が思いついて、「この話、楽しい」「もっともっと発展させたい」「作りたい」と思う。その子どもみたいな空想の旅行の先が、結果的に舞台につながっていく。
だから何かを作らなければいけないという使命感より、本当に子どもみたいに「これ楽しい、これ面白い」と思ったことをやっているだけなんです。

BEHIND CULTURE |VOL.01 団塚唯我の映画づくりとカルチャー
BEHIND CULTURE|VOL.02 Sora Aota、ヒップホップから始まった制作活動
BEHIND CULTURE|VOL.03写真家・高木由利子が見つめてきた“撮る”という行為
BEHIND CULTURE|VOL.04映画監督・今泉力哉の映画づくりの中で残してきた余白
BEHIND CULTURE|VOL.05作曲家・阿部海太郎が考える、作品に寄り添う音楽のあり方
BEHIND CULTURE|VOL.06映像作家/クリエイティブユニット・tsuchifumazu。アーティストに寄り添う映像表現と制作の舞台裏
BEHIND CULTURE|VOL.07音楽プロデューサー・Taka Perryが仕掛ける、鎖国なきJ-POPのグローバルスタンダード
BEHIND CULTURE|VOL.08特殊メイクアーティストAmazing JIRO、役者と作品に命を吹き込む“アナログのリアリティ”