毎回、ある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ。 小説「インナー・シティ・ブルース」。第10回は、小石川後楽園が舞台となる。
【あらすじ】
小石川後楽園編の語り部は、一橋広司。江戸時代から陰陽師として東京を守ってきた囲間(かこいま)家に先祖代々から仕えてきた執事だ。囲間家の年中行事である後楽園の紅葉を愉しむ会で、一橋が見守るなか、ついにこれまでのエピソードで別々に登場した囲間家三姉妹が一堂に会し、彼女たちの使命が明らかになる……
午後5時過ぎ。閉園が4時半にも関わらず、名残惜しそうに庭を眺めていた老婦人を、係員がやんわり追い出すのを見届けると、私はインカムでセッティング開始の合図を出した。待ち構えていたスタッフが、かがり火台を次々とトラックの荷台から下ろしていく。スタッフのひとりが私に訊ねてくる。
「一橋さん。池の周りにかがり火台を置く間隔ってどのくらいでしたっけ?」
「26尺……7.88メートルごとに正確に置いてください。それと池ではないよ。大泉水と呼ぶように」
先祖代々お仕えしてきた囲間(かこいま)家の行事のしきたりを、私の代で破るわけにはいかない。
今から500年近く前にこの小石川後楽園が造られて以来、晩秋の夕べにこの庭を借り切って囲間家は紅葉を愉しむ会を行ってきた。後楽園は明治維新後に陸軍の管轄になり、戦後に都立公園になったが、それでも秘密の会はずっと行われてきた。国家機密レベルでは公園が囲間家の手によるものであることが認められていたからだ。
世間一般の常識ではこの庭は、明国から亡命してきた高名な儒学者、朱舜水が設計したとされている。だが囲間家の伝承によると囲間家の三代目当主に朱舜水はこう漏らしたという。
「名前を貸すのは結構ですが、我が国の風水師が見たらこの庭に私が関わっていないことを瞬時に見破ることでしょう。風水を超えた驚くべき法則で作られていますから」
小石川後楽園だけではない。東京という街自体が囲間家の法則で作られたと言ってもいい。そのルーツは16世紀に遡る。
豊臣秀吉が関東の雄、後北条氏を滅ぼすと、臣従していた徳川家康はその旧領に封ぜられた。家康は自らの城下町をどこに作るか決めるため、いずこからか陰陽師を呼び寄せた。「海道一の弓取り」の異名を取った戦国の猛者も、鬼や祟りを恐れていたからである。
陰陽師は家康の前で開口一番こう提案した。
「京や大阪を超える都を作りたくはありませんか?」
京都や大阪は碁盤の目で区切られた人口都市だ。こうした形の街は、鬼や祟りの影響を最小限にできる反面、自然の霊的な力を活用できない弱点があった。陰陽師は霊的な力を最大限に活かす都市計画を家康に上奏したのだ。
こうして城下町に選ばれたのが、海岸線に台地が迫り、無数の小さな川が蛇行して流れていた江戸だった。陰陽師は徳川家から「囲間」の姓を賜り、江戸を霊的に守護する秘密の職についた。彼の子孫によって、19世紀に江戸は世界最大の都市となった。
とはいえ自然の力は厄介なものだ。街並みが少しでも変化すると途端に霊気のバランスは崩れてしまう。このため江戸は何度も大火やコレラに襲われた。しかし囲間家はそのたびに新たな法則を探し出して都市の活力を保ち続けた。
江戸の巨大化に伴って囲間家が保持するノウハウは、長崎経由で仕入れた西洋の白魔術や中南米の黒魔術を含んだ膨大かつ複雑なものとなっていき、彼ら無しでは立ち行かなくなった。囲間がいなくなったら東京はどうなってしまうか分からない。そんな懸念から、明治維新後も囲間家の地位は保証された。関東大震災や東京大空襲後の再開発、そして東京オリンピックといった街が変化する重要な局面で、囲間家は隠然たる影響力を行使し続けたのだ。
大泉水の周辺の遊歩道に一定間隔で置いたかがり火台に、スタッフが次々と火を灯していった。そのたびに色づいた木の葉が闇からふっと浮かび上がっていく。公園には非常灯が備え付けられていないので、その効果は格別なものがあった。
「きれいねえ」
私の横に佇んでいた妻が声をあげる。もう三十年以上、一緒に立ち会っているはずなのに彼女は初めて見るかのような反応をする。
妻が、紅葉林の中に野点傘を据えて茶会の準備をする。そこからは正面に蓬莱島と呼ばれる大きな岩が浮かび、奥にはかがり火で照らされた木々が立ち並ぶ光景が眺められる。ほぼ完璧な小宇宙だ。
「ほぼ」というのは、東京ドームと東京ドームホテル、文京シビックタワーといった建物が高木の向こう側から顔を覗かせているからだ。
私が父のもとで仕事をし始めた頃はまだ高木の向こう側には何も見えず、江戸時代と寸分も変わらない景色が広がっていた。完璧さを乱すものが建てられたのはバブルとその後の崩壊によって東京が大きく姿を変えた頃だった。
日本人が鬼や祟りを恐れていたのは、その存在を感じ取れる者が少なからず存在したからである。だが時代を下っていくごとに、そうした人間は減っていった。囲間家に代々お仕えする我々ですら最早そうした感覚を備えていないのだから、今では殆どいないはずだ。
もし人間に赤と青の区別ができなくなったら、人は赤信号でも平気で横断歩道を渡るようになるだろう。その場合、車にはねられるのは単に「運が悪い」とみなされる。日本人が物事の赤と青が区別できなくなった時代、それがバブル時代だった。かつての東京が重く見てきた自然や霊的存在との調和は無視されるようになったのだ。
囲間家の先代の旦那様は、勃発する災難を何とか食い止めようと私財を投げ打ち、昼夜を惜しまず働かれた。苦労がたたって病に倒れた旦那様は、21世紀最初の年に亡くなった。まさに戦死と表現するのが相応しいものだった。
私の5つ上でしかないから生きていてもまだ66歳。今も現役でご活躍されていてもおかしくない。こんなことを言うと妻から必ず怒られるのだが、遺された3人のお嬢様が誰もお嫁に行くのを見届けられずに亡くなったのも無念だったろうと思う。
そんなことを考えていると長女の鴎(かもめ)様がお越しになられた。
「広司さん、寒いのにご苦労様です」
飯田橋の駅から歩いて来られたようだ。セーターの上に着込んだダウンジャケットの上に、うしろで緩く編んだ髪がだらんと垂らされている。
「お綺麗なのだから、もっとお洒落すればいいのに勿体ない」
妻はいつもそう嘆いているが、鴎様は昔から身なりに構わない人だった。いや、身なりに構う暇がなかったというのが正解かもしれない。
旦那様が亡くなったとき、鴎様はまだ高校三年生だった。鴎様は女子大にエスカレーター進学して小学校の教師になるつもりだったのだが、突如進路を変更すると大学の建築科に進学された。そして不審がる私をよそに卒業後に大手ゼネコンに就職したのだ。
鴎様の真意が判明したのは2年後のことだった。お嬢様は一級建築士の受験資格を得ると試験に合格して会社から独立して、囲間建築事務所を設立した。財産を減らす一方だった父親の失敗を踏まえて、東京の大規模開発に設計協力会社として入り込んで合法的にビジネスを行なおうと考えたのだ。私も建築事務所の専務取締役ということになった。
「なぜ計画を話してくれなかったのですか?」
そう尋ねると鴎様がこう答えられたことを覚えている。
「そんなこと話したら、広司さんは一級建築士の試験問題を裏ルートで仕入れてきちゃうでしょう。それは絶対嫌だったので」
一級建築士より遥かにやさしいインテリア・コーディネーターの試験問題を裏から手に入れるよう懇願してきた楽(らく)様とはえらい違いだ。
「広司おじさん、きたよー」
すると当事者である次女の楽様が声をかけてきた。ヘルメットを手にしているところからすると、新宿からバイクで走って来られたようだ。革ジャンにブラックジーンズといういでたちは庭園のイメージと全くそぐわないが、そこが楽様らしい。昔から空気を読むことを一切せず、問題ばかり起こしていたけどなぜか憎めない、そんなお嬢様だ。
「今日はずいぶんワイルドなのねー」
妻は楽様に会うといつも嬉しそうだ。楽様が生まれたばかりのとき、奥様は病に伏せっていたため、妻は同じ時期に生まれた息子の貞と一緒に母乳をあげていた時期があったからだ。
囲間家に生まれる者は代々、霊的な存在を感じ取り、それを操る強い「能力」を備えていた。こうした子どもを生むと母体はひどく消耗してしまうらしい。旦那様はそれを慮って鴎様と楽様の間に5年の間隔をもうけられたが、それでも奥様は弱ってしまわれた。
旦那様が危険を承知で第二子をもうけられたのは男の子が欲しかったからだ。父親と母親のそれぞれに霊感がないと「能力」は子どもに受け継がれない。伊勢や吉野には霊感を持つ女の子がごく稀に生まれる里が今も存在しているので、そこから妻を迎えれば能力は次の代に受け継がれていく。奥様も伊勢からお越しになられた。しかし霊感を持つ男が自然発生的に誕生する可能性はほぼゼロと言われている。このため子どもが女の子だけの場合は家系が絶えかねないのだ。
名門の家系を自分のせいで終わらせるわけにはいかない。奥様は責任感から、5年後にみたびの妊娠を自ら望まれた。その結果、出産と同時に亡くなってしまわれた。しかも生まれたお子様はまたしても女の子だった。
「パパ、ママ。遅くなってごめんなさい」
私たち夫婦をパパ、ママと呼んでくれる三女の雨様がタクシーから降りてきた。
ぼかし格子の藍色の着物にやはり格子柄で葡萄があしらわれた名古屋帯を締め、江戸小紋の灰色の羽織を重ね着している。羽織の背には上がり藤の中心に「間」の字があしらわれた囲間家の家紋があしらわれている。奥様から受け継いだものだ。かつて紅葉の会ではお三方ともこうした着物をお召しになり、華やかなことこの上なかったのだが、今ではきちんとした格好をされるのは雨様だけになってしまった。ほんとうにお美しい。
「あんたってほんとうに可愛いよねー」
楽様がそう言いながら雨様をスマホでパシャパシャ撮りはじめ、スマホ嫌いの鴎様は隣で苦々しい表情を浮かべている。
旦那様が亡くなられたとき雨様はまだ小学2年生だったため、父親から「能力」の使い方を伝授されていた二人の姉と違って何も教わることができなかった。そのせいか幼いころから「わたしは丸の内OLになって普通の人と結婚する」と言っていて、現在では私の口利きで就職した会社で働いている。
但しいつもどこかボンヤリしている子なので、複雑なオフィスワークができるとは到底思えない。自分の子のように育てていた私と妻はそのことを心配していた。
事実、雨様は「いまキテる街だから」という理由で松陰神社前の2LDKのマンションを借り、OL向けファッション雑誌のグラビアに載っている服を丸ごと買ったりしているのだが、合計金額は給料を遥かに上回るもので、赤字分はすべてこちらで負担しているのだった。
風がそよいでゆっくりと揺れる紅葉の下で茶会が始まった。昔は神楽坂の「うを徳」に仕出し弁当を作らせて取り寄せていたのだが、旦那様の十三回忌になる年に鴎様が「もうこんな贅沢はいいでしょう」と止めてしまい、翌年からは三人のお嬢様が各々食べ物を持ち寄るようになった。美食家だった旦那様の影響で舌が肥えてしまった私には辛いのだが、これも時代の流れなのだろう。
鴎様が持ってきたのは昨年と同じおにぎりと唐揚げ。お住まいになっている豊洲のマンションの1階に入っているコンビニの商品で、すぐそばの工場で作っているから普通のコンビニのものより美味しいのだと主張されている。それを雨様が東京駅のGRANSTAで買ってきたサラダと一緒に銀食器に取り分け、楽様がカリフォルニアワインのオーパス・ワンの栓を開けた。
お嬢様たちはとても仲は良いのだが、齢が離れていて今では別々に住まわれているせいか、話が微妙に噛み合わない。重要な内容を話し合うときには、そっけない会話をしながら、口調や表情から相手の考えを感じ取っている。そんなやりとりが今晩も始まった。議題はもちろん囲間家の将来をどうするのか、誰が能力を持つ子を出産する危険な任務に挑むかである。
私はお嬢様たちが生まれたときからお仕えしているせいか、会話の影に隠されたお三方の真意を理解することが出来る。
「鴎姉さん、相変わらず忙しそうだよね。プライベートの方どう?(念のため確認しておくけど、鴎姉さんは“能力”を持つ男と結婚して子どもを産む気持ちはないんだよね?)」
「それどころじゃないから。オリンピックの開発で至る所でバランスが乱れて、残留思念がモンスター化しているのよ。今度あなたにも手伝ってもらうからね(楽ちゃん、私はこの仕事自体にはやり甲斐を感じているけど、それを次の代に繋ぐことには興味がないから。ていうか、あなたもそういうことは考えなくていいからね)」
「うん、わかった。でもわたしもわたしで色々やることがあるからさ(やっぱりそうか。じゃあ私はアンダーグラウンド界隈で「能力」を持つ男を見つけて、排卵日にファックして妊娠するから。で、生まれた子は鴎姉さんが後継者として育てるってことでオッケー?)」
「モンスターは予告なしに現れるんだから。呼ぶときは呼ぶからね(楽ちゃん、そんな計画まだ本気で考えていたの? 不衛生な街をほっつき歩いてなんかいないで、もっと自分のことを大切にして。私たちは出来ることをやればいいのよ)」
「鴎ちゃん、楽ちゃん、わたしも呼ばれれば行くけど……(ふたりがそういうつもりなら、私が「能力」を持った男子を一生懸命探して結婚するけど)」
「雨ちゃんはいいから!(言葉通り)」
「うわー、やっぱり三人姉妹って華やかでいいよねー」
とつぜん男の声がした。振り返ると髪をブロンドに染めた黒いスーツ姿の男が立っていた。
京南大学の文学部史学地理学科准教授、阿房家(あほおけ)誠だった。
不意の来客に、楽様が怒った。
「囲間家の行事にアホー家が来んなよ、バーカ!」
「ひどいなあ、楽ちゃん。ぼくも囲間家の血を引いているんだぜ」
阿房家は「能力」が弱いという理由で、元禄年間に廃嫡された当時の囲間家の長男が立ち上げた分家だ。
奇妙な苗字の由来は、長男の怨念にある。彼は「かこいま」をあいうえおで一つずつ前にずらした「おけあほ」をアレンジした苗字を名乗ることで、自分が囲間家の上を行く者であると宣言したのだ。そして子孫代々が吉野の村落から霊能力のある女子を娶ることで、これまで「能力」を維持してきたと主張している。
しかし楽様に言わせると、阿房家に「能力」があるかは疑わしいという。
「だってあの一家さ、毎年上野公園で花見会を開いているっていうじゃない? 150年前の上野戦争で266人が戦死して、東京大空襲では遺体の仮置場として焼死体で埋め尽くされたあそこでだよ。「能力」が少しでもあったらとても呑気に酒なんて飲めないわけ。なのにあいつら、あそこで酔っ払えるんだからね」
鴎様はそこまでは否定してはいないものの、10年前に阿房家から寄せられた誠との縁談はきっぱり断っていた。縁談には彼らの陰謀もあった。分家して以来、神奈川で細々と祭事を行っていた阿房家は、旦那様が病に倒れると代理と称して東京で仕事を取り始めた。ときには建築計画自体の変更も辞さない囲間家と違って、気軽にゴーサインを出してくれる阿房家は大企業にとって都合がいい存在だった。
そして旦那様の死後、彼らは平成の東京のランドマークとされるスポットの霊的なコンサルタントを立て続けに手がけて隠れた名声を確立したのだった。しかも現当主の息子である誠は、お堅い学会の若きホープという地位と、ホストと見間違いそうな派手なルックスのギャップでメディアで顔を売りつつあった。
あとは滅びゆく本家を乗っ取るだけ。そう考えて阿房家は鴎様に縁談を申し入れたというわけだ。ところが鴎様は断ったばかりか家業を復興し、阿房家の前に立ち塞がったのだ。現在の両家の勝負は五分五分といったところだ。
ところが鴎様は意外な言葉を口にした。
「楽ちゃん、いいから。誠さんを呼んだのは私なの」
「えっ、何それ?」
楽様が驚く。
「正式なお願いをしたいからこの場にお呼びしたの」
「そんな気はしたから来てみたんだけどさ。で、お願いって何?」
誠が期待混じりの声で訊ねる。
鴎様が答えた。
「いまそちらが手がけている品川新駅の仕事。あれを囲間家に移管して欲しいのです」
誠はしばらく呆気にとられていたあと、反論しはじめた。
「おいおい、あんなビッグ・プロジェクト、うちが手放すわけないだろ!」
「あの駅は東京の中心部から見て西南、つまり「裏鬼門」の方角に当たるのはご存知でしょう。ほかの場所はともかく、あの駅の霊的な設計を失敗したら東京は滅びかねないの」
「それは横暴ってもんじゃないのか? そもそも阿房家の能力を見くびってもらっちゃ困る」
「そう言って私の忠告を聞かずに引き受けた仕事をほっぽり出した過去を忘れてしまったのですか? あの後始末で今どれだけ苦労していることか」
静かに怒りを込めた姉の姿を、楽様と雨様は黙って見守っていた。誠もしばらくは鴎様の気迫に押されていた。だがやがて何か思いついたのか笑みを浮かべながら、詰め寄る鴎様を制止した。
「わかりました。品川新駅は鴎さんに譲りましょう。ただし条件があります」
「条件とは何でしょう?」
「雨さんとお付き合いをさせて頂けませんか? もちろん結婚を前提としたものです」
誠にとっては名案だろう。
「能力」に問題がある阿房家よりも鴎様が品川新駅を担当した方が東京の安全は保たれる。勝負はそのあとだ。仕事第一の鴎様と、行きずりの超能力者と子どもを作るという実現困難な計画を思い描いている楽様はおそらく子どもを残さずに死ぬ。そのとき囲間家の跡を継ぐのは自分と雨様の子どもということになるわけだ。
「あんたさ、鴎姉さんと同い年でしょ。てことは雨ちゃん、アンタの十歳下じゃない。このロリコン」
楽様が激昂する。そういえばこの方の気性を知っていたからか、阿房家が楽様に縁談を申し入れることはなかった。
「イヤだなあ、純粋に素敵な人だと思うから交際したいと思っているだけですよ」
白々しく弁解する誠を見つめながら、鴎様が語りかけた。
「本当に雨ちゃんのことが好きなら、そんなこと考えないはずです。「能力」を持つ者を生んで長生きした人は誰もいないのですから。あなたのお母様だって早く亡くなられたでしょう?」
「そこには見解の相違がありますね。まず第一に科学的な根拠がない。早死にした人が偶然多いだけかもしれない。第二に、たとえそうだとしても僕らには高貴な血統を次世代に繋いでいく責任があるんじゃないでしょうか」
この発言を聞いて、鴎様と楽様はたとえ東京が滅びようと雨様を守る方を決心したようだった。しかし誠を罰しようにも、この場所では、お二人の能力は発揮できそうにもなかった。鴎様の得意技は、残留思念が集積した魔物を操ることだったが、江戸時代から庭園だったこの場所に怨念が集まっているとは到底思えない。楽様が得意としていたのは、相手をその場所の過去に短時間送り込むことだったが、送った先も同じ庭園では効果はゼロに等しい。
すると雨様が口を開かれた。
「誠さん、品川新駅の仕事を無条件で姉に譲ってください。そうでないと大変なことが起きますよ」
「大変なこと? 東京の裏鬼門を守るくらい僕にだって出来ます」
「お断りするのですか?」
「無条件なんて。そんなバカな話、受けるわけがないでしょう」
「では大変なことを起こしますので」
そう言うと雨様は袖を捲ると、呪文のようなものを唱えながら右手で宙に筆をしたためるような仕草をはじめた。すると、筆の跡にあたる箇所の闇が薄くなり、何かが浮かび上がってきた。
その何かは、髷を結い小袖姿で大刀を差していた。若い武士だった。
武士はすぐ目の前に雨様が立っているのを見ると、その美しさに顔を赤らめた。
雨様は「囲間家の者です」と言うと、くるっと回って背中の家紋を武士に見せた。
「こ、これは恐れ多い!」
恐縮する武士の前で、雨様は誠を指さすとこう言った。
「助けてください。あの南蛮人に襲われそうになっているのです」
「おのれ、恐れ多くも御三家の庭園で姫君に狼藉とは許すまじ!」
武士は刀を抜くと誠に近づいていった。事態を察した誠は、顔を蒼白にして逃走した。
「待て、待たんか!」
それを武士が追いかけていく。
遠くに走り去っていく二人を眺めながら、鴎様と楽様が口を揃えて雨様に訊ねた。
「もしかして“招聘”の技を使った?」
「うん、鴎ちゃんの部屋に泊めてもらったとき、本に書いてあったのを読んでいたから、うろ覚えでやってみたんだけど何とか出来たね」
私も思わず分をわきまえずに尋ねてしまった。
「“招聘”とは一体何を招いたんですか?」
「えーと、この場所に昔いた人。小石川後楽園って昔は、水戸藩の屋敷の一部だったでしょう? 水戸藩って幕末の頃、尊王攘夷の藩として外国人を敵視していたから、その頃の人に助けてもらえばいいかな、って考えて幕末から呼んでみたの」
楽様が感心する。
「すごいよ雨ちゃん、わたし結構練習したのに全然ダメだったんだよね」
鴎様も同意する。
「わたしも無理だった。たぶん父さんも出来なかったはず。そういえば“「招聘”」って過去からどのくらいの時間、呼んでいられるんだっけ?」
雨様が答える。
「たしか20分くらいかな? そのあと自然に消えて元の時代に戻るはず」
「20分! それだけあったら、あの金髪ブタ野郎、確実に斬られるね」
楽様が楽しそうに笑った。
鴎様は真顔で言った。
「いずれにせよ阿房家は品川新駅の仕事をこちらに譲ってくると思う。雨ちゃんありがとう」
雨様がおずおずと訊ねる。
「鴎ちゃん、楽ちゃん、仕事手伝えって言われればわたしも行くけど……(どうやら私が一番才能があるっぽいから、私が“「能力”」を持った男子を探して結婚するよ)」
ふたりの姉はシンクロして言った。
「雨ちゃんはいいから!(言葉通り)」
このやりとりを最後に、お嬢様たちは重要な内容を話し合う気を無くしてしまったようだった。
お三方はしばらく静かにお食事を楽しまれていたが、楽様が突然「うわっ、体が急に冷えてきた。ねえ、ラクーア行かない?」と提案すると、あとのふたりは「賛成」「いいね」と言うなり帰り支度をはじめ、「ごきげんよう」「じゃあ」「パパ、ママまたねー」などと言いながら足早に去っていかれてしまった。
暗闇の中、お嬢様たちの後ろ姿が消えるまで見送る私に、妻が話しかけてきた。
「また言いそびれてしまったわね、恋様のこと」
「小石川後楽園編:ファミリー・アフェア」了
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門2』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。
https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000