インナー・シティー・ブルース シーズン2長谷川町蔵 著フューチャー・ショック 大江戸線 前編

毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。オリンピックイヤーを目前に、待望のシーズン2が新たな登場人物たちを迎えてついにスタート! シーズン2第1話は、千駄ヶ谷を舞台に始まる。

【あらすじ】
東京の一等地の戸建てに住み、恵まれた家庭環境に育ったものの姉や兄と比べてこれといった才能がなく、やさぐれている少女、空津澪(からつ・みお)。彼女が唯一くつろげる場所は、家の近くにあり、オリンピックでも使用される東京体育館の広いプールだ。しかしある日、澪はターンの際にしくじってプールの中で意識を失ってしまう……。

「いってきます、お姉ちゃん」
 2000年7月24日 月曜日の午前8時55分。空津澪(からつ・みお)は朝食の後片付けをしている姉に声をかけると勝手口から飛び出した。
敷地を出ればすぐに外苑西通り。駅の方面に歩いていくとカブトガニのような形をした屋根が見えてくる。これから向かう東京体育館の屋根だ。午前9時の開場に余裕で間に合う地の利を生かして、澪は夏休みの朝、必ずここの室内プールで泳いでいた。
 勘のいい都民ならこれだけ読めばわかるだろう。彼女が相当恵まれた家の子だってことを。東京体育館が建っている場所は新宿や原宿、渋谷に囲まれた千駄ヶ谷である。ぼくが「勝手口」って書いた一方でエレベーターや集合エントランスについて触れていないことに注目してほしい。つまり彼女は一等地の戸建てに住んでいるってわけ。
 これだけでもうこの物語を読みたくなくなった人もいるかもしれない。地方格差、コンプレックス、ルサンチマンが今の流行りだしね。でも先に言っておこう。この物語は時代を飛び越えるファンタジーなんだ。
 話を進めよう。空津家は、丸の内に本社を構える一部上場企業、第一機械工業株式会社の創業家だった。この年、還暦を迎えた当主の海舟(かいしゅう)はこの会社の専務取締役を務めていて、遠からず社長の座に就くと言われていた。海舟には七歳下の妻、渚と三人の子がいた。長女の満(みちる)、長男の湊(みなと)、次女の澪である。
 29歳になる満は少女時代、勉強やスポーツで特別な才能を発揮した。あまりに破格すぎて、エスカレーター式の付属校からドロップアウトしてしまい、長野のフリースクールで高校時代を過ごしたほどだ。
 大学でも優秀な成績を収めていた満だったが、なぜか卒業と同時に第一機械工業の関連会社に勤める、平凡を絵に描いたような男、丹念洋と結婚して専業主婦になった。その後、やはり平凡極まりない少年である息子の潮(うしお)を生んだが、生家に住み続け、空津家のマネージメントに腕をふるっていた。
 満とひとまわり以上歳が離れていた弟の湊は18歳。高校三年生だ。姉と比べると勉強もスポーツもイマイチだったが、度胸の良さと異性から歓声を浴びる才能には秀でていた。三姉弟のうち彼だけが美貌の母に似てルックスがイケていたのである。彼はその才能を活かせるという意味では最善の部活動である演劇部で大活躍していた。
 そんなふたりと比べると、13歳の澪はこれという才能がない子どもだった。それどころか彼女は最近、精神的に不調だった。人間という生き物は中学に進学すると突然、承認欲求と性欲に支配された獣になる。クラスメイトの中には日サロで顔を焼いたり、厚底靴で学校に通う子も出始めていたが、こうした変化から遅れをとった澪は、教室にいるだけでクラスメイトたちの感情の渦に飲み込まれ、疲れてしまっていたのだ。
 澪はときおり自問自答した。
「十年後にはもっと楽になっているのかな」
 水の感触だけを味わっていればいい水泳は、だから彼女にとって貴重な時間だった。
 公共施設によくある無機質でだだっ広いロッカールームで水着に着替えると、澪は消毒シャワーを浴びて室内プールへと向かった。1964年に開催された東京オリンピックでは水球の競技会場でもあったプールは、公式記録に対応した50メートルのレーンを8つ備えていて、記録達成を見届けるための座席が階段状に片側の壁を埋め尽くしていた。もちろんこの日は誰も座っていなかったわけだが。
 澪は屋外からの光がちょうどいい角度で降り注ぐ第3レーンがお気に入りで、いつもそこで泳いでいた。この時間帯にやってくる人はだいたい近所の知り合いだったので暗黙の了解によって指定席と化していたのだ。ところが今朝に限って第3レーンの前には痩せた老婆がすでにおり、ゆっくりした仕草で泳ぐ準備をしていた。澪は地元民のプライドを主張することにした。老婆の横をすりぬけると、第3レーンに飛び込んだのだ。
 プールの中に入ると手足が自然に動き出し、水が体のラインに沿って後ろへと流れていく。澪は家族の中でただひとり水泳が得意だった。別荘がある伊豆の海ではいつも浜辺から見えなくなるほど遠くまで泳ぐので、泳ぎが苦手な満から「大島まで泳ぐつもり?」と心配されていたほどだ。だからその気になればレーンを何度も往復できたのだが、この日は事情が異なっていた。
 一往復したところで澪は、頭上から唸り声が浴びせられていることに気がづいた。レーンを横取りされた老婆がまだ怒っていて、文句を言っているのだ。その迫力ある声色に意識をとられ、ターンの際におかしな角度で壁をキックしてしまった。ふくらはぎに激痛が走った。水面に浮かび上がりたくても体がうまく動かない。プールの水が鼻と口から入り込んでいく。
 澪は意識を失った。
 一瞬にも永遠のようにも思えるブランクから、澪が意識を回復すると、水中は闇に包まれていた。鼻腔が破裂しそうなほどの悪臭を感じる。とにかく一旦プールから上がろう。彼女は足をかばいながら手だけで体を前に押し進めた。すると足がひっかかる。簡単に水底についてしまったのだ。伊豆の海と同じ感触がする。砂だ。立ち上がってみると、水は腰ほどの高さしかない。外は真っ暗だった。おそらく深夜なのだろう。
 澪は自分が水着ではなく、着た覚えのないTシャツに黒のスリムパンツ、キャンバス地のスニーカーという格好をしていることに気がついた。前方には砂浜が広がっているようだ。振り返ってみると波の向こう側に巨大な橋がかかっているのが見えた。
 「レインボーブリッジだ!」
 毎朝「めざましテレビ」で見ているから知っている。
「もしかしてここはお台場?」
 振り返るのを止めて、視線を上にあげて答え合わせをしてみる。正解。闇の中にはフジテレビ本社ビルの球体型をした展望室が浮かび上がっていた。
 「なぜお台場にいるのだろう?」
 考える以前に臭いで頭が働かない。まず海水を洗い流そう。砂浜の奥にぼんやりと腰高のコンクリート壁で囲まれた洗い場らしきものが見える。海からあがって近づいてみると、コンクリート壁にはブルーのホースが繋がれた水道の蛇口があり、横に「100円(5分間)」と書かれた投入パネルが貼ってあった。
 パンツのポケットを探ってみたけど、お金は一銭も見つからない。だが洗い場のさらに左手奥に自動販売機が設置されているのを見つけた澪は、兄の湊から教えられていた裏技を使うことにした。砂の上に落ちていた木の枝を手に取ると、自動販売機の下に差し込んで、隙間に溜まっているものを丁寧に掃き出してみた。
「人で賑わっている場所なら一枚や二枚落ちているはず」
 湊の教え通り、小石やゴミの中に100円玉が一枚混じっていた。
 澪は投入口に100円を押し込むと、ホースを手に取った。本当なら服を脱ぎ捨てたいところだが、深夜とはいえ屋外だ。蛇口を回すとそのままの姿で冷たい水を浴びた。5分が経過して水が止まると、コンクリート壁に腰掛けて体が乾くのを待った。
「千駄ヶ谷にいたはずなのに何で?」
 信じがたい体験の原因を突き止めようにも、この場所には何の手がかりもなさそうだった。彼女はまずはみんながいる家まで帰ろうと決意した。辺りは静まりかえっている。お台場は湾岸エリアの中でも陸から遠い場所だから、朝が来るまでこんな調子だろう。人通りがある場所まで移動して、タクシーを捕まえよう。タクシー代はお母さんかお姉ちゃんに払ってもらえばいいんだし。
 澪はコンクリート壁から飛び降りると、丸太で組まれた階段をかけあがってビーチの出入り口へとむかった。出入り口の柵にはプラスティック製の箱がくくりつけられていて、観光客向けのイラスト地図が入っている。彼女はそこから一部を取り出して、自分の居場所を確認した。目の前を左右に走る海岸通りは、右側に進むとすぐに行き止まりになってしまうようだ。左側に進もう。照明灯で照らされた通りの歩道をしばらく歩きはじめると、そこには運河が横たわっていて、橋の向こう側には銀色をした流線型の建物が見えてきた。どこかで見た記憶がある。
 澪は地図で建物を確認した。有明スポーツセンター。彼女は小3のとき、ここで開催されたフェドカップを母と見に行き、伊達公子がシュテフィ・グラフを破る伝説的な瞬間に立ち会った経験があった。
 橋を渡って有明に足を踏み入れると、片側3車線の広い車道を自動車がときおり猛烈な勢いで走っていた。でもほぼすべてが輸送用の大型トラックで、タクシーはおろか普通車の姿もない。
「もっと都心に近づかなきゃ」
 澪は北上してみることに決めた。
 都心に住む子は実のところわりと歩く。特に千駄ヶ谷に住む澪の場合、メジャーな盛り場に電車で遊びに行こうとすると、中央・総武線で代々木まで一旦行き、山手線に乗り換える必要があった。彼女はそれが面倒臭くていつも歩いて遊びに行っていたのだ。  
 服は半乾きだし疲れてはいたけど気分は悪くなかった。目の前の視界が広かったからだ。明治神宮や新宿御苑、神宮の森に囲まれている千駄ヶ谷は周囲に高い建物がなく、見上げると辺り一面が空だった。澪は学校の授業で高村光太郎の「智恵子抄」を習ったとき、彼らが千駄ヶ谷に引っ越せば問題はすべて解決するのにと思ったものだ。湾岸エリアの視界の広さは彼女の心細さを和らげるものだった。
 澪は再び運河にかかった橋を渡った。今度の橋は長く、右側に大きく湾曲している。歩道は一応あるものの自動車での交通しか想定していないせいか緩い傾斜が延々と続いて、歩くのは一苦労だった。彼女がようやく渡りきると、目の前は巨大な倉庫がそびえていた。壁には豊洲市場と書かれている。
「築地以外にこんな大きな市場があったんだ」
 驚く澪の前を、トラックが次々通り過ぎていったが、やはりタクシーは走っていない。地図を見返した彼女は、交差点を左折して豊洲大橋を渡り、さらに北上することに決めた。橋の向こうには晴海、さらにその先には勝どき、築地、銀座がある。さすがにどこかでタクシーは捕まるはずだ。
 晴海へと渡る橋のちょうど真ん中を歩いていると、空が白じんできた。豊洲と晴海それぞれの運河沿いに高いビルがいくつも並び立っている。同世代の大半がそうだったように、テレビ視聴時間の80%をフジテレビを観ることに費やしていた澪だったが、「ロングバケーション」でも「踊る大捜査線」でも「めざましテレビ」のアミーゴ伊藤の中継でもこんな未来的な光景は見た記憶がなかった。まるで外国にいるみたいだ。晴海側のビルとビルの隙間から見える細長いタワーなんか、中国出張から帰ってきた父から教えてもらった上海のテレビ塔そっくりだ。
「東京だと思っていたけど、もしかして上海に飛んで来ちゃったとか?」
 澪は不安になってきた。橋の先もあたり一面が工事現場で、クレーンが幾つもそびえたっている。彼女はそこにおそるおそる近づいてみたが、フェンスにカラフルな色で書かれていたキャッチフレーズを見て安心した。
「HARUMI FLAG TOKYOが、どまんなかから生まれ変わる。」
「よかった、やっぱり東京だったんだ」
 安堵感のせいか体から力が抜けていく。彼女は、フェンスに寄りかかってひと休みすることにした。

「あの〜大丈夫ですか」
 男子の声で澪は目覚めた。彼は自転車にまたがっていた。歳は澪と同じくらいだったが太っているしずいぶん小柄に見えた。ただし善意の塊みたいな顔をしていて、女子校通いの澪にも警戒心を抱かせない。男子が尋ねてくる。
「選手村を見にきたんですか?」
「選手村?」
「ほら、ここってオリンピック選手村の建設地だから」
「オリンピック?」
「東京オリンピックですよ、知らないのにこんな場所にいるんですか」
 1964年にタイムスリップしてしまったってこと? 満の部屋の本棚にはタイムトラベル物のSF小説が並んでいたため、たまに覗き読みしていた澪にもその手の知識がある程度はあった。
「えーと、今年って何年?」
 男は笑いながら答えた。
「令和元年7月24日!」
「れいわ……昭和じゃなくて?」
「もしかして海外から来られたんですか? 2019年5月に元号が平成から令和に変わったんですよ」
 澪の顔色を見て、男子は異常を察したようだった。
「やっぱり病院とか行きます?」
「大丈夫。タクシーを拾って帰るから」
「家はどこなんですか」
「千駄ヶ谷」
「えーっ、それは勿体ないっすよ。この時間ならもう電車も走っているし大江戸線で一本だし」
 空津家の敷地周辺では長年地下鉄の工事が行われていて、2000年4月に地下鉄の新線が開通していた。都知事が命名した大江戸線というネーミングに「これだから慎太郎は!」と父が嘆いていたのも覚えている。だが大江戸線は豊島園の方角に向かう電車のはずだ。晴海まで開通しているなんて話は聞いたこともないし、そもそもお金がない。
「実は財布を落としちゃったみたいで」
「電車代くらいならお貸しますよ。駅まですぐだから」
 男子は自転車のうしろに乗るように手招きした。下心はゼロ。底抜けの善意しか感じない。澪は誘いに応じることにした。彼女を載せると、自転車は何度か左右に大きく傾いたものの、スピードがのってくると順調に走り出した。
 男子が喋り出した。
「もしかしてこんな早朝に何をやっていたのか分からなくて不審がっていました? 実は友達んちでオールでネトフリの『ストレンジャー・シングス』をビンジしていたんです。あれ超面白いですよねー」
 なにを言っているかわからない。
「おれ、超常現象とかオカルトとか大好きなんすよ」
 自転車はオフィス街を通り抜けていく。どのビルの1階もガラス張りで、コンビニが入っていた。セブンイレブン、ローソン、ファミリーマート、またセブンイレブン。不思議なことにサンクスやam/pmがひとつも見当たらない。晴海独特の規制でもあるのだろうか。
 そんなことを考えながら澪が景色をぼんやりと眺めていると、そのうちの一軒のガラスに自転車に乗った自分の姿が映った。彼女はショックのあまり自転車から転げ落ちそうになった。
「大丈夫?」
 男子が心配そうに声をかけてくる。大丈夫なわけない。だってガラスに映っていたのは同年代の男子と軽やかにニケツしている女子中学生ではなく、子どもに必死にしがみついている大人の女だったのだから。

フューチャー・ショック 大江戸線 後編へ続く


小説『インナー・シティ・ブルース』シーズン2

フューチャー・ショック 大江戸線 前編

『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門2』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク