インナー・シティー・ブルース シーズン2長谷川町蔵 著フューチャー・ショック 大江戸線 後編

毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。オリンピックイヤーを目前に、待望のシーズン2が新たな登場人物たちを迎えてついにスタート! シーズン2第1話は、千駄ヶ谷を舞台に始まる。

【前回までのあらすじ】
東京の一等地の戸建てに住み、恵まれた家庭環境に育ったものの姉や兄と比べてこれといった才能がなく、やさぐれている少女、空津澪(からつ・みお)。彼女が唯一くつろげる場所は、家の近くにあり、オリンピックでも使用される東京体育館の広いプールだ。しかしある日、澪はプールの中で意識を失ってしまい、目覚めるとそこは19年後の東京で、自分の体も大人になっていた……。

 澪はパニクりながらもこれまで自分に起きた事を理屈づけようとした。
 2000年に13歳だったわけだから、2019年には32歳になっているはず。その32歳の体の中に、13歳の精神だけがタイムスリップしたってこと? どうりで同い年くらいの男子が小柄に見えたり、丁寧語で話しかけてくるわけだ。それにしてもなんで32歳? 23歳じゃダメなわけ?
 自転車は「都営地下鉄 勝どき駅」と書かれた地下鉄の出入り口らしき場所の前で止まった。
 男子は自転車のカゴに入ったリュックからポストイットを取り出すと、ボールペンで何かを書きこんで、1000円札を添えて渡してくれた。
 「返すのはいつでもいいんで」
 ポストイットには「田畑論(たばた・ろん)」という名前と携帯電話らしき電話番号が書かれていた。
 「なにか困ったらLINEしてください」
 「LINE」の意味がわからなかったけど、わかったふりをして受け取った。
 「ありがとう。わたし空津澪」
 澪は、田畑と別れるとエスカレーターで地下へ降りていった。乗車券の自動販売機の上に路線図があり、勝どきから新宿方面にむかって8つめの駅に「国立競技場」という駅がある。その次の駅は代々木だからおそらく国立競技場が千駄ヶ谷のことなのだろう。彼女は切符を買うと改札をくぐり、タイミングよくホームにすべりこんできた電車へと乗り込んだ。
 始発から数本目の早い便でありながら、車内にはすでにサラリーマンや学生が座席の半分ほどを占拠している。澪は驚いた。誰も本や新聞を読んでいない。皆が皆、右手に持った薄い板状の携帯電話を覗きこんでいた。
 途端に地下鉄の乗客たちの感情が澪の心をこじ開けて入り込んできた。中学の教室で感じていたものなんか比較にならない。とても強くて歪んでいる。
 嫉妬と裏返しの正義感。少数意見を排除しようとする偏見。それとは逆の、多数派を蔑む少数派の根拠がない優越感。築地市場、汐留、赤羽橋、麻布十番、六本木、そして青山一丁目。国立競技場で降りる頃には彼女は疲れてはてていた。
 「ヤバい。歳をとって病状が悪化しているのかも」
 改札を出て重たい足どりで地上に出ると、澪は辺りを見回してみた。
 「やっぱり千駄ヶ谷だ」
 でも何か雰囲気が違う。頭上を見上げて彼女は違和感の原因を発見した。巨大なスタジアムの屋根が、空を埋め尽くしていたのだ。
 スタジアムは国立競技場と同じ場所に立ちながら、数倍も大きく感じられた。敷地はフェンスに囲まれ、「2020年東京オリンピック メイン会場 建設中」と書かれた看板が掲げられている。1964年の東京オリンピックのメイン会場だった国立競技場を取り壊して、新しい競技場を建設しているのだ。
 同じ場所で開催するなら、なぜそのまま使わないのだろう? 理由がわからない。
 作業開始前の静まり返った工事現場を左手に見ながら、澪は外苑西通りを南下した。3分ほど歩くと千寿院の交差点の向こう側に鬱蒼とした林が視界に入ってきて、そこから見慣れた鉛色の瓦屋根がちらっと見えた。空津家はもとのままだった。
 終戦直後に建てられた空津家の屋敷は純日本式の平屋建てだったが、客人を迎えるために玄関部分だけは西洋風に作られていた。しかしその重々しさが苦手だったのか、海舟と洋以外の家族は奥にある台所の勝手口から出入りしていた。
 「ただいま」
 引き戸を開けると、エプロンをした中年女性がいた。
 「あら澪さん、お久しぶり」
 明るい声色で答えてくれた女性は自分を知っているらしい。朝食の後片付け中のようだ。家事ヘルパーさんだろうか? 満は自分だけで家事をすることに拘っていたはずなのに。下駄箱で靴を脱ぎながら、薄暗い家の中を見回すと、台所の向こう側にある両親の部屋から話し声が聞こえてきた。
 澪は襖を開けた。父の海舟が、机に置かれたノートパソコンに向かってなにか独り言を喋っていた。頰がげっそり削げ落ちていり。19年分、いやそれ以上老けてみえる。
 「おいっ、収録中は入ってくるなと言ったろ!」
 父が嗄れた声で叫んだ。
 「……ごめんなさい。お姉ちゃんやお母さんは?」
 「お前、いやがらせか」
 「えっ」
 「鬱憤を晴らしたいのはわかるが、冗談だとしても俺を責めるな。それにお前にだって少しは責任があるじゃないか……」
 なにを言っているのかわからない。でもパジャマのままガウンを羽織っている父を見て、なんとなく状況を察した。母も姉もここには住んでいない。だから父は家事ヘルパーさんを雇っているのだ。パートタイムのせいで部屋が片付けしきれていないのがわかる。その証拠が、壁際に置かれたアップライトピアノだ。父は毎晩このピアノで何か弾いていたはずなのに、閉じられた蓋の上には本や雑誌がうず高く積まれていた。
 澪は書名をちらっと見て驚いた。「日本が天晴れな108の理由」「シノゴの言わずに中国をぶっとばせ」「韓国が滅亡する日に高笑い」
 中国や韓国に出張するたび、「彼らはすごいよ。このままだとすぐに追い抜かれる」と熱弁を振るっていた人が読む本とは到底思えない。
 机の傍には紅茶のポットとトーストの食べ残し、昨夜飲んだらしい缶ビールが無造作に置かれている。ヘビースモーカーだったはずなのにタバコを止めたのか、灰皿がないことだけが救いだったが、部屋は混沌を極めていた。父は一日中ここで過ごしているのだろう。ダンディさが売りで、第一機械工業の社長だか会長になること間違いなしだった人がこんな風になっているなんて。
 「お前いったいこの三日間どこをほっつき歩いていた? 携帯にかけても出ないし。まあ、いつものことだけど、てっきり航(わたる)君に続いてお前も失踪したと思ったぞ。なのに、いきなり帰ってくるんだからな」
 海舟は彼にとって甥にあたる男の名を口に出した。失踪? 奥さんと子どもを連れてしょっちゅう家に来ていた陽気なあの人が? 
 「それと澪、なんだか臭いぞ」
 父から指摘されて、澪はお台場の海水の匂いがとれきっていないことに気がついた。黙って襖を閉めると、台所の傍にある風呂場へと駆け込んだ。
 シャワーから出たお湯を浴びながら、彼女はあらためて自分の身体の変化を確認した。この話がアニメにでもなったらじっくり描かれるシーンかもしれないけど、詳しいことは省略する。身内の体についてはあれこれ書くのはキモいしね。
 それ以上に澪がショックを受けたのは、鏡に映った自分の顔だった。濃い眉と長いまつ毛、ハネ気味の髪といった特徴的な部分はあまり変わっておらず、思った以上に少女の名残を残している。美人とはいえないけど、二十歳といっても通用するかもしれない。ただし、その分この19年間なにも学ばずに過ごしてきた代償が表面化したみたいな小狡い顔になっていた。
 「これなら、がっつりオバさん顔になっていた方がまだマシだよ」
 彼女はしばらく風呂場で泣いた。
 脱衣所で顔と体を拭くと、タオルを体に巻いたまま台所と茶の間を駆け抜けて自分の部屋に入った。飼い猫のマイロは日当たりがいいこの部屋を好きだったため、いつも彼女を出迎えてくれたものだが、部屋の中にその気配はない。
 「19年も経ったらさすがに死んじゃってるか」
 また泣きそうになった。押入れの中にあるカラーボックスからTシャツとスウェットパンツを引っ張り出しながら、部屋中を見渡してみる。2000年の時点で部屋にあった家具はすべて入れ替わっていた。白い机の上には中学の入学祝いに買ってもらったボンダイブルーのiMacではなく、シルバーの薄いノートパソコンが置かれてあった。
 「こんな小さいと、gooの検索とかめっちゃ遅そう」
 CDラジカセは見当たらないのに、CDだけが机の棚に並んでいるのも不思議だった。宇多田ヒカル「First Love」や坂本龍一「ウラBTTB」といったお気に入りのCDは全て無くなっていて、知らないものに入れ替わっている。
 「本当にわたしの部屋なのかな」
 ふと窓の外を見て、澪は全身の毛が逆立つのを感じた。彼女の部屋の外には八重桜が植わっていて、窓のちょうど真ん中に幹が見えていた。ところが今見ている八重桜の木は、以前と同じ形をしながら、窓の右端ぎりぎりの位置にズレて植わっていたのだ。
 激しい動悸を感じながら澪は、廊下を挟んで向かいにある湊の部屋の襖を思い切って開け放った。「澪、勝手に開けるなよー」というお馴染みの声は聞こえない。カーテンが閉めきられた部屋にはタンスやゴルフバッグが押し込まれ、納戸のようになっていた。「お兄ちゃんも別のところに引っ越しちゃったんだ」
 部屋のカーテンを開けると、ちょうど窓越しにさっきのヘルパーさんが花壇に水をやっていたのが見えたので声をかけた。
 「あの、いつもわたし以外に誰がこの家に来ますっけ?」
 ヘルパーさんは不思議そうな顔で答えてくれた。
 「そうですねー。義理の息子さんの洋さんとお孫さんの潮さんでしたっけ? あの方達はたまにみられますけど」
 澪は夏の太陽が眩しく降り注ぐ南向きの板張り廊下を小走りすると、トイレのある突きあたりを左にターンして、満の家族が住んでいた離れの襖を開けた。八畳二間続きの部屋の奥にポツンと仏壇が置いてある。そこには一番飾ってほしくない人の写真があった。
 「お姉ちゃん……」
 澪は茶の間に戻ると、深呼吸を何度かするとプッシュホンの受話器を取り、ボタンを押した。電話の相手にはいきなり切られたが、構わずもう一回かけると今度は電話に出てくれた。
 「誰ですか?」
 「田畑くん? さっき助けてもらった空津澪」
 「はーっ、いきなり電話をかけてくる人なんて今どきいないからビビっちゃった。ごめんなさい。無事に家に帰れたんですか?」
 「帰れはしたんだけど、相談したいことがあって。田畑くん、超常現象とかオカルトに詳しいって言っていたよね」
 澪は自分に起きた奇妙な体験の一部始終を話した。田畑は馬鹿にせず話を聞いてくれた。
 「えーと、まとめますね。澪さんは2000年に千駄ヶ谷のプールで溺れて、気がついたら2019年のお台場の海中にテレポーテーションしていたと。で、帰ってみたらインテリだったはずのお父さんがネトウヨになっていて、仲良しだった家族が全員家出をしていて、お姉さんは亡くなっていた? しかも家自体が以前と微妙に異なった場所に建っている?」
 「うん」
 「うーん、まず考えられるのは澪さんの記憶喪失ですけど、可能性は薄いかな。だって家の場所の違いが説明できないし。あくまで俺の推論ですけど、澪さんにとってここは生まれ育った世界と極めて近いパラレルワールドの未来なんじゃないかな」
 「わたしの直接の未来ではないってこと?」
 「その通り。純粋な未来にタイムトラベルするのは物理的に不可能って研究結果が最近出ているんですよ」
 「でもなんでわたしがこんな目に」
 「誰かが何らかの使命のために澪さんを未来に送り込んだじゃないかな」
 「使命? よくわかんないよ」
 「お台場って、東京オリンピックのトライアスロン会場なんですよ。あそこで目が覚めたっていうのが怪しい。海の中、臭くなかったですか?」
 「めちゃくちゃ臭かった。あれ、なんなの?」
 「会場近くに下水処理場があるんですけど、処理能力がキャパオーバーする日があって、塩素を混ぜただけのトイレの下水が海中に放出されちゃうんですよ」
 「要するにわたし、ウンコの中で泳いでいたってこと?」
 「そうなりますね」
 「げーっ、そんなところでオリンピックをやるなんておかしくない?」
 「それですよ。そうだ、澪さん、体育館のプールで、お婆さんに文句を言われたって話していたじゃないですか。もしかするとその人は文句じゃなくて呪文をかけていたのかも」
 「呪文?」
 「東京オリンピックを中止させるために澪さんを魔法で未来に遣わしたんですよ」
 「たしかにお台場の海は問題かもしれないけど、中止までしなきゃいけない問題なんかあるの?」
 「大アリですよ。たとえば晴海の選手村を見ましたよね? あの建物ってオリンピックが終わったらリフォームして分譲マンションとして売り出すんですけど、何戸あるか知ってます? なんと5600戸ですよ!」
 「それって多いの?」
 「めちゃくちゃ多いです。だって東京都全体でも年間3万戸くらいしか供給されないんですよ。よく東京一極集中って言われているけど、実は郊外はすでに人口が減りはじめていて、多摩ニュータウンあたりは高齢化が進んでヤバい状態になっているんですよ。なのに中央区だけでそれだけの数のマンションを売り出したら、都市としてのバランスがますますおかしくなっちゃう」
 「ふーん、田畑くん詳しいんだねー」
 「小学校のときにお世話になった先生がいて。すごく変わった人なんだけど、その人から影響を受けまくってこうなっちゃったんですよ」
 「色々ありがとう。今度は会って相談するかも。そのときお金を返すね」
 澪は受話器を置いた。本当は、田畑にまた相談する気なんて一切なかった。もし何かの目的で2019年に送られてきたのだとしても、今すぐ2000年に帰りたい。
 澪は、満の本棚にあったSF小説に書かれていた「もとの時代に帰る方法」を必死に思い出してみた。そう、大体いつも同じパターンだった。タイムスリップしたときと同じシチュエーションを体験するのだ。
 自分の部屋に戻ると澪は、カラーボックスを漁って、くしゃくしゃに丸まったビキニを見つけた。それをトートバッグに放り込むと、勝手口から飛び出した。もう一回、東京体育館の三番レーンで泳ごう。そして今度はわざと溺れるのだ。
 敷地を出ればすぐに外苑西通り。駅の方面に歩いていくとカブトガニのような形をした屋根が見えてくる。東京体育館の場所は変わっていなかった。
 但し決定的な違いがあった。建物の周りがぐるりと工事用のフェンスに囲まれていたのだ。看板にはこう書いてあった。
 「東京体育館は、東京オリンピック パラリンピック2020大会に向けた改修工事および開催に伴い現在休館中です。ご利用再開は2021年1月から(予定)」

 こうして澪は2019年の東京に留まらざるをえなくなった。
 しばらく呆然としていたが、彼女はすぐに気を取り直した。
 「こうなったら何で家族のみんながこんな風になったのか原因を突き止めてやる。プールが使えるようになったら、2000年に帰って、今みたいにならないように歴史を変えるんだ。そうすれば東京オリンピックもついでに開催されなくなるのかも」
 帰り道を歩いていると、食欲をそそる匂いが漂ってきた。ホープ軒のラーメンの匂いだ。自分に課せられた大いなる使命の前に、澪はまずやらなければいけないミッションを思いついた。
 「とりあえず何か食べようっと。さくら銀行からお年玉を下ろさなきゃ」


『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門2』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク