インナー・シティー・ブルース シーズン2長谷川町蔵 著第三話:サタデイ・イン・ザ・パーク 代々木公園編

毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。オリンピックイヤーを迎え、待望のシーズン2が新たな登場人物たちを迎えてついにスタート!

【あらすじ】
2000年から2019年へタイムトラベルしてきた女の子、空津澪(からつ・みお)。中身は13歳のまま、体は32歳だ。時空を超えてきた間に家族に何が起こったのか教えてもらうために、澪は、現代の兄の湊(みなと)と連絡をとる。待ち合せは、代々木公園のとある場所。そこへ向かう中、澪は不可思議な光景を目にして……。

 「だから渋谷は嫌だったんだよ」
 坂を駆け上がりながら、空津澪はひとりごとを言った。土曜午前の渋谷の街には昨晩の熱気がまだ漂っていて、彼女の心をかき乱している。
 「知らない街になっちゃったし」
 2019年へのタイムトラベル以来、2ヶ月が経っていた。しかし大江戸線での体験に懲りたせいで彼女は繁華街を避けていたので、渋谷に来るのは初めてだった。駅前に建つヒカリエや建設中の渋谷スクランブルスクエア、建て替え中の東急プラザといった見知らぬ建築群はこの街で遊んでいた澪を混乱させるには十分なものだった。
 「おまけにヘンなおじさんに話しかけられたし」
 約束の時間より渋谷に早く着いた澪は、タワーレコードで時間調整することにした。K-POPという謎の音楽ジャンルがワンフロアを占めていたり、よく母に連れられて行っていた7階の洋書売り場が消滅していたことにショックを受けながら店内をぶらついていると、とつぜん見知らぬ男に話しかけられた。
 「マリーナちゃん? 堺マリーナちゃんですよね?」
 黒いパーカーにブラック・ジーンズ、黒縁メガネ。黒いリュックを背負って右手にはショップバッグを下げている。年齢は三十代半ばくらいだろうか。
 「よかった……心配していたんですよ!」
 早口で喋りかける男の口から、ドス黒い感情が洪水のように溢れて出てくるのを感じた。パニックに陥った澪は無言で背中を向けるとエスカレーターを駆け下り、店の外へと飛び出した。そして交差点を走って渡ると、そのままフィンガーアベニューの急坂をかけあがりはじめた。
 「いまのオジさん、全身黒づくめだった! もしかして田畑くんが話していたメン・イン・ブラックってやつ?」
 澪はテレビや新聞を見てわからないことがあるたびに有明で出会った男子中学生、田畑論に電話をかけていた。そして2019年の東京になぜ自分が送り込まれたのかを、ふたりで延々と話し合っていたのだ。
 「タイムトラベルして来たのを政府の機関に勘づかれたのかな? でもわたしを心配していたってことは味方? それにしても堺マリーナって誰? わたしのコードネームとか? それとも……」
 公園通りと交差する場所に立つホテル コエ トーキョーが、かつてパルコPart2が存在した場所なのを確認すると、彼女は右に曲がって今度は公園通りの坂を駆け上がりはじめた。

 渋谷で会う約束をしていた相手は、兄の湊だった。最近はこの街で昼夜を問わず仕事を続けているという彼は、話が終わったら職場にすぐ戻らなければいけない事情があった。当初は渋谷で会うことを嫌がっていた澪だったが、お気に入りの場所がひとつあるのを思い出した。
 「ニューヨークみたいなあそこならいいよ」
 公園通りの終点から始まるケヤキ並木の舗道を、NHKと国立代々木競技場第二体育館を左右に見ながら進んでいくと、その先に広大な代々木公園が広がっている。公園を南北に分断する赤坂杉並線を歩道橋で渡り、渋谷門をくぐってさらに奥に直進すると、噴水を設置した大きな人口池に突き当たるはずだ。その池の左岸沿いにはベンチが6つ並んでいる。
 この6つのベンチこそが澪にとってのニューヨークだった。そこに座ると、噴水のしぶきのむこうに代々木のドコモタワーを眺められるのだ。彼女はこの風景をセントラルパークから見えるエンパイア・ステート・ビルディングにそっくりだと思っていた。実際のニューヨークではセントラルパークとエンパイア・ステート・ビルディングの距離は離れすぎていて、そんな景色は実在しないのだが、それはまた別の話である。
 タイムトラベルの起点である2000年夏の時点ではドコモタワーは建設中だったので、澪は完成した姿を見るのを楽しみにしていた。ところが公園通りの坂が終点に近づくにつれて雰囲気が何だかおかしい。渋谷区役所の手前あたりにフェンスが設けられていて、門を出入りする人たちがチェックを受けていたのだ。
 「代々木公園の入場の仕組みが変わったのかな?」
 近づいてみるとフェンスには「OFF LIMIT」と英語で書かれている。しかし門のそばに立っていたカーキ色の制服を着た警備員は彼女を一瞥すると「入っていい」というジェスチャーをした。驚いたのは彼が外国人だったことだ。
 「日本も国際化したんだな」
 澪は感心しながら門の中に足を踏み入れたが、そこに並木道はなかった。車道に改装されている。両側の舗道を歩いていた歩行者は長身の外国人ばかりだ。しかもみんな奇妙な格好をしていた。Tシャツやジーンズを身につけた人間が誰一人見当たらない。男たちは頭の生え際を刈り上げ、伸ばした頭頂部の髪の毛はワックスでべっとりと後ろに撫で付けていて、ユニフォームのように半袖シャツにチノパンを着ていた。女たちの方は全員髪を頭頂部にむかって膨らませ、赤白のストライプや水色といったカラフルな色のワンピース姿だ。ジープが排気ガスを吐き出しながら車道を走りすぎていった。
 「もしかして外国人限定のローラー族のイベント開催日とか?」
 澪は、姉の満が小学生の頃、毎週末に観にいっていたという80年代の代々木公園の名物イベントを思い出していた。しかし歩いていくうちにこれが週末限定のイベントではないと感じ取った。人口池はおろか代々木公園自体が無くなっていたからだ。そこには見渡す限りカラフルにペイントされた木造住宅が建ち並んでいた。家のまわりには柵がなく、敷地はすべて芝生でゆったりと繋がっている。子どもたちの甲高い歓声が遠くから聞こえてくる。澪はあちこちから視線を感じた。外国人たちが遠くから警戒するような視線で自分を眺めていたのだ。
 「ヤバイ。外に出なきゃ」
 澪は引き返そうとしたが。もう一度大通りを歩く気になれなかった。
 「仕方ない、原宿門から出よう。あっち側の方が人通りが少なそうだし」
 代々木公園には、渋谷門とは別に原宿駅のそばにも門がある。千駄ヶ谷に住む澪が、家からより近い原宿門から公園に入らなかったことには理由があった。ひと月ほど前に原宿でひどい目に遭ったからだ。
 街並みがどう変わったかを知りたくて散歩していた彼女は、原宿の街を行き交う人々の「わたし、あの子よりイケてる」「あいつクソダサいな。俺の方がまだマシ」といったマウンティングの感情の渦にダメージを受けてしまい、1週間近く寝込んでいたのだ。
 澪は、池の名残を残す曲がりくねった車道に沿って目立たないように原宿方面に歩いた。すると家はだんだんまばらになっていき、隣地である明治神宮の森が見えてきた。
 「はー、助かった」
 あたりを見回すと、森に包まれるように一軒家がぽつんと建っていた。グレーの瓦屋根に白い壁の木造平屋建て。窓枠はペパーミントグリーンのペンキで塗られている。家の中心部には玄関があり、雨除けの庇が大きく前にせり出していた。その庇の下に座りこんでなにかを熱心に読んでいる女の子の姿が見える。15歳くらいだろうか。綺麗だけど外国人のようにも日本人のように見える。ライトブルーのセーターにモノトーンのチェックのロングスカート、後ろにまとめた髪はネイビーカラーのリボンで結われていた。ピアノのコンクールの出場者みたいな格好だ。
 気がつくと澪は彼女のそばまで近づいていた。女の子は澪と目が合うと少し驚いた表情をして立ち上がった。澪よりも背が高い。ニコリと笑うと挨拶してきた。
 「こんにちは。代々木中の子?」
 日本語だ。でも声のトーンが普通の子よりも高くて硬い。
 「ううん、代々木中は家の近くなんだけど、わたしが通っているのは京南女学院なんです」
 反射的に答えたあと、澪は「あれ?」と思った。いまの自分は32歳なのに何故この子は私に中学を訊いてきたのだろう。慌てて窓ガラスに映った自分の姿を確認してみた。ベティーズブルーのパンダの刺繍があるピンク色のセーターの上にイーストボーイの紺色のダッフルコートを羽織り、ラヴァーズハウスのデニムを穿いている。1999年の秋から翌年春まで、毎日のように着ていた格好だ。澪はかつての姿に戻っていた。
 「ほら、ここって一時期、代々木中の男の子がよく野球しに来ていたじゃない? あなたと同い年くらいの女の子が応援に来ていたから、あなたもそうだと思ったの。でも一番人気があった男の子たちが辞めたら、来なくなっちゃったけど。聞いた話だとショウビジネスの世界に入ったそうね。あ、京南って学校は知ってるわ。あなたみたいなクールな子ばかりなの?」
 「あなたはどこ中なんですか?」
 女の子は笑いだした。
 「わたし? ここに住んでいるんだから、ここに決まってるじゃない? 来年の春からナリマスハイスクールだけど。その頃には家もグラントハイツに引っ越すと思うけどね」
 代々木公園の中に中学校? ナリマスハイスクール? そもそもなんでわたし中学生に戻っているわけ?
 混乱する澪の様子をしばらく眺めていた女の子は、澪の視界に入るように手にしていたものを差しだしてきた。
 「これ、なに?」
 「あなたの先輩にあたるわたしの友達からの手紙。この人、京南大学に通っているの。わたし、ママが日本人なんだけど、喋るのは普通にできても読み書きが苦手で」
 手に取ってみると、大阪城が油絵調で描かれている。絵葉書だ。裏返すと万年筆による読み辛い漢字混じりの文章が縦書きで書かれていた。

マリーナ・フィッシャー様
 あれからもう2年近くが経つのですね。お元気でしょうか? 僕らのシルバーサーフ・セットの大阪公演は大盛況でした。といっても、もうすぐジャズマンも卒業です。来春から予定通り……

 女の子は「予定通り」に続く漢字を指差す。
 「これ何て読むの?」
 澪は口に出して読んであげた。
 「えーと、第一機械工業、会社の名前だね。わたしの父さんも働いていたから」
 そう答えると、澪は文字の続きを読んだ。

 第一機械工業に就職します。マリーナさんはお元気にされておりますでしょうか? クリスマスにはまたハーディー・バラックスで演奏する予定です。よろしければそのときお会いいたしましょう。ごきげんよう。
堺海舟

 この子、マリーナっていうんだ。海舟って、父さんとおんなじ名前なんだな。しかも大学も会社も同じだなんて、めちゃくちゃ偶然。そう思った瞬間、澪の脳裏にタワーレコードで見知らぬ男にかけられた言葉がフラッシュバックしてきた。
 「マリーナちゃん? 堺マリーナちゃんですよね?」
 顔が青ざめていく澪を、女の子が心配そうに覗き込む。その顔をまじかに見て澪は思った。この子とどこかで会った気がする……。澪の意識は遠のいていった。

 「澪」
 名前を呼ばれた彼女は目を開けた。一瞬さっきの女の子に見えたけど、大人の男性だ。湊だった。あれから19年が経っても兄はあまり変わっていない。赤いダッフルコートにワンウォッシュのデニムパンツ。サンドベージュのブーツを履いて相変わらずのロン毛を風になびかせながら笑っている。今もモテていそうだ。
 「お前、がっつり寝てたぞ」
 澪は自分がベンチに座っていることに気がついた。目の前には人口池の噴水、そのまたむこうには完成したドコモタワーが見える。彼女は自分の姿を確認してみた。グレーのフーディーにオリーブグリーンのカーゴパンツ、ナイキのスニーカー。手も足もここ2ヶ月間見慣れていた32歳の姿だった。
 「ごめん。妙にリアルな夢を見てた」
 「寝顔はたしかに13歳っぽかったけどさ、お前、ほんとうに中身も13歳なわけ? 溺れかけたショックで記憶がぼんやりしてるだけなんじゃないか?」
 「ちがう! 話したでしょ。記憶喪失じゃなくて意識だけこっちに飛んできたんだって」
 澪は、湊に電話で話した内容をもう一度最初から繰り返した。湊は突拍子もない話にツッコミもいれず黙って聞いていた。「あのとき」以来、澪が苦しみながら生きてきたのを知っていたからだ。湊は突然電話をかけてきてから以降の彼女の言動を、自分に構ってほしいゆえの演技なのではないかと疑っていた。その疑いは晴れなかったが、延々と喋り続けている姿を見て、妹に13歳として接してあげないとすべてが壊れてしまうと確信した。
 「で、澪はオリンピックが終わったら2000年に帰るつもりなんだ? 帰って何をするわけ?」
 「歴史を変えるの。お姉ちゃんを助けて、お父さんをネトウヨにしないようにしてお母さんに家に戻ってもらう。ねえ、お父さんってずっとあんな感じなの?」
 「まあね。俺ぜんぜん家に帰ってないから知らないけどさ、話を聞くかぎりでは最近さらに酷くなってるっぽいな」
 「それと東京の歴史も変えたい。渋谷なんてパルコPart2がなくなっていたしさ、駅の周りに知らないビルがたくさん建ってた。これじゃあ別の街になっちゃったみたいだよ」
 湊は笑いながら言った。
 「渋谷ほど変わり続けている街はないんだぜ。そもそも俺たちが今いるこの公園自体、もとは1964年の東京オリンピックの選手村だし」
 澪はタイムトラベル直後に晴海で見た巨大なマンション群を思い出した。
 「オリンピックの前はワシントンハイツってアメリカ軍の住宅地。母さんが住んでいた家、澪も見たことあるだろう?」
 もしかして! 澪はベンチから立ち上がると走り出した。湊もあわててあとをついていく。澪は人工池沿いの歩道を抜け、原宿門の方角へと走っていった。しばらくして彼女が立ち止まった場所には、夢の中で見た平家建てがそのまま残っていた。家の前には看板が設置されていて、こう書かれていた。「オリンピック記念宿舎と見本園」。
 湊は呆れたような声で話しかけてきた。
 「米軍がワシントンハイツを日本に返還するのと同時に、母さんはこの家からいまの光が丘に引っ越した。そのあと東京オリンピックでこの家をオランダのオリンピック選手団が宿舎として使ったって話、聞いたはずだろ? それも忘れちゃったのか?」
 「わたし、夢の中でマリーナ・フィッシャーって子と会った」
 湊は、澪の顔を見て考えた。満が死んだのは30歳のときだ。いまの澪はそれよりも年上になっている。この夢が、満にも覚醒していなかった能力の働きだとしたら? でも目の前にいるのは単に子どもっぽい表情をした32歳の女に過ぎない。湊は考えるのをすぐに止めた。
 「それ母さんだよ」
 「お母さんの名前は江原渚でしょ。お父さんと結婚して空津渚になった」
 「えっ、そこから忘れてるって設定かよ?」
 澪は湊の目を睨んで言った。
 「そうだよ! 2000年よりあとに知ったことは何も知らないの。父さんにそれとなく聞いても無視されるし。だからお兄ちゃんと直接会って、わたしたちに何がおきたかを教えてほしかったんだよ」
 湊は静かに答えた。
 「それは嫌だな」
 「なんでよ?」
 「あらためて話したら、自分まで思い出したくないことを思い出すしね。それに正直、澪の反応を見るのも怖い」
 そう言ったあと湊はしばらく考え込んでいたが、なにか思いついた表情をした。
 「潮ちゃんのことは覚えてるよな?」
 「忘れるわけないよ。お姉ちゃんの子どもでしょ」
 「あー……まあ、いいか。今あいつ、第一機械工業で働いているんだ。たしか千葉工場かな。でも仕事が暇らしくてさ。趣味で俺たち家族をモデルに短編小説をたくさん書いているんだ。ネットにあげているから、まずそれを読んでみな。話を面白おかしくしようと結構盛ってはいるけど大体事実だから。まあ、航おじさんの失踪の話は盛りすぎてるけど」
 「ネット? 部屋にノートパソコンが置いてあったんだけど、パスワードがかかっていて動かせないんだよね」
 「スマホで見りゃいいだろ。あ、そうか。海の中に落としたままなんだっけ。いいよ、まだ時間があるからこれから公園通りのアップルストアに行こうぜ。アイフォンを買ってやるよ」
 「わかった。そのアイフォンってやつでネットを見れるんだね。ありがとう」
 澪は、渋谷門の方向に歩きはじめた湊のあとをついていきながら、心の中であることを決意した。
 「潮ちゃんの文章を読むのは夜11時以降にしよう。テレホーダイの時間をうまく使わなきゃ。でないと、お父さんに怒られる」


『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク