インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第十話:クール・イン・ザ・プール ホテルニューオータニ編

illustration_yunico uchiyama

インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第十話:クール・イン・ザ・プール ホテルニューオータニ編

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毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。混乱を極める東京の今と過去をつなぎながら、シーズン2には新たな登場人物たちを迎え、さらに壮大なナラティブを紡ぐ……。

【あらすじ】1985年8月16日、小樽涼太(14歳)はワケあってホテルニューオータニにいた。彼が気を紛らわすためにホテル内のプールへ足を運ぶと、そこで同級生の空津満の姿を見つける。これは偶然なのか? 涼太は満を天敵だと思い込んでいたので気づかないフリを決め込むが、逆に彼女に見つけられてしまう。思いがけず向こうから声をかけてきた彼女は、いつのまにか摩訶不思議な話をし始めて……。

 四谷駅を降りてからずっと眩しい光の中を歩いてきたせいで、自動扉からホテルニューオータニの建物の中に入った途端、少年の目は何も見えなくなった。だが目が慣れてくると、濃灰色を基調に白や赤で抽象的な模様が描かれたカーペットが足下に見えてきた。
 彼は顔をあげて周囲を見渡すと、廊下を進んでいった。飾り柱が等間隔で立つスペースに人が集まっているのが見える。ホテルの受付カウンターはその奥にあった。
「あのー、小樽涼太といいます。伯父が部屋を予約していると思うんですけど」
 受付係の女性は宿泊台帳を確認した。
「ガーデンタワーの2101号室ですね。伯父様からのファックスもお預かりしています」
 ルームキーと館内地図、そしてホテルの名前が印刷された封筒を手渡された少年は、礼を言うと廊下をさらに直進した。左側にブランド品を扱うギフトショップ、右側に大きな窓から光が降り注ぐラウンジがあるエリアを通り過ぎるとエレベーターがあったので、彼は21階まで上がり、伯父たちが待っているはずの部屋に辿り着いた。だが呼び鈴を二回押しても誰も出ない。仕方なくルームキーを使って室内に入った。
 部屋にはそれぞれに二人の人間が寝られるくらいの大きさの二台のベッドに加えて、小ぶりなアディショナル・ベッドが持ち込まれていたが、人影は何処にもない。少年は封筒を開けると、折り畳まれたファックス用紙を広げて読んだ。そして「マジかよ」と言うとベッドのひとつに倒れ込んだ。
 しばらくの間、彼は横たわっていたが、自分の汗の匂いが気になって起き上がった。
「プールにでも行くか」
 館内の地図を確認した少年は、持ってきたボストンバッグの中からウォークマンと黒のスイムパンツ、ビーチサンダルを取り出して手にしたビニール袋に放り込み、部屋の外へと出た。5階の宴会場フロアに下りると彼はさきほどとは逆方向に廊下を歩き、「庭園出入り口」と書かれた扉から屋外に出た。
 なぜ5階から屋外に出られるのか。それはホテルの建物が、赤坂見附から四谷へと至る紀尾井町通りの急坂に沿って複数の棟に分かれて建っているため、見附側のガーデンタワー5階が四谷側の本館1階と繋がっているからだ。
 ホテルニューオータニが開業したのは1964年。東京オリンピックで急増する外国人観光客を迎え入れるために国策として作られたホテルだった。話題を呼んだ設備はふたつ。ひとつはフロア全体がゆっくりと回り、東京の夜景を360度楽しめる本館最上階の回転レストランだ。2019年の改修工事後は固定されてしまったものの、少年が訪れた1985年8月16日の時点ではそれはまだ先の話だった。
 もうひとつは坂の高低差を利用した人工滝を設けた日本庭園である。錦鯉が泳ぐ池に架けられた太鼓橋は記念撮影スポットになっていて、この日も団体客が撮影に興じていた。
 しかしこうした光景は、まだ14歳の少年には何の感興ももよおさなかった。
「このクソ暑いのに何やってんだよ。邪魔、邪魔」
 心の中でそう言いながら、庭園を足早に横断すると石畳の階段を駆け下りた。
 プールは、階段下の通りを右に進んだ先にあった。白い建物の壁には「GARDEN POOL」と書かれた小さなサインが掲げられていて、地下に受付とロッカールームがあった。
 スイムパンツに着替えた少年は、階段をあがってプールサイドへと出た。褐色系の石が貼られた床は太陽の光をたっぷり吸収していて、ビーチサンダルごしでも足の裏が少し熱い。柱の気温計は33度を指している。幼い頃には体験したことがなかった気温だ。
「このぶんだと1999年に本当に地球は滅亡しちゃいそうだな」
 彼はふと不安になったが、すぐに心配をするのをやめた。地球の滅亡以前に28歳になっている自分を想像できなかったからだ。
 プールは概ね長方形だったが、一部を削り取るような形で円形の子ども用プールが設けられていて、その不規則さが何故か優雅だった。少年はプールから離れた場所に寝椅子がひとつ空いているのを見つけると、タオルを敷いて自分のテリトリーにした。すぐにでも水中に飛び込みたかったが、体を密着させているカップルたちに混じるのは気遅れがした。
 彼は寝椅子の上で胡座をかいてしばらく音楽を聴くことにした。ビニール袋からウォークマンを取り出して耳にヘッドフォンを装着する。AXIAのカセットテープには自分で編集して作った洋楽最新ヒット曲集が収められていた。
 スクリッティ・ポリッティ「ザ・ワード・ガール」で幕を開け、パワー・ステーション「サム・ライク・イット・ホット」、プリンス&ザ・レボリューション「ラズベリー・ベレー」、ティアーズ・フォー・フィアーズ「ヘッド・オーバー・ヒールズ」、マドンナ「クレイジー・フォー・ユー」という順で曲が並ぶカセットA面に耳を傾けながら、彼はプールの周辺を観察した。

 プールサイドの要所要所にはライフガードが立っていて、プールの中で異変がないか目を光らせている。だがその視線はほぼ一箇所に集中していた。
 視線の先にいたのは、紺に白い水玉模様の水着を着たショートカットの少女だった。空を見上げて気怠げな表情を浮かべている。でもそうした表情には不似合いな黄色の浮き輪で水に浮かんでいたので、なんだか滑稽にも見えた。
「あいつ、もしかして空津満(からつ・みちる)かな」
 七月の最終週に、少年が所属する京南高校付属中のテニス部は、同じ系列の京南女学院中テニス部との合同合宿を行った。その一員に彼女がいた。
 学年のリーダー同士という理由から、少年と少女は男女ダブルスのトーナメント大会や夜の出し物会の企画進行を共同で任された。しかしふたりはリーダーとしてのあり方が異なっていた。
 少女の方は、京南の生徒の大半を占めるアッパークラスの子どもの中でも頂点に立つ、名実ともにリーダーといえる存在だった。彼女がこうと決めれば女子たちは黙って従った。対して中学受験で京南に入学してきた少年は、付属小出身者が多いテニス部ではアウトサイダーでしかなく、面倒くさい役割を押し付けられたに過ぎなかった。影の権力者の了承を取らない限り、男子たちはまとまらなかったのである。
 少女が、統率力のない少年を再三にわたって揶揄したので、企画進行は停滞し合宿の間中ふたりは言い争った。テニス部員たちはその姿を面白がって夫婦漫才だと囃し立てたが、それは痴話喧嘩ではなく単なる境遇や性格の不一致に過ぎなかった。
「やっぱ空津だ。気づかないフリすっか」
 少年は視線をそらそうとしたが、相当離れた距離にもかかわらず逆に見つけられてしまった。少女は手を大きく振って手招きしてくる。
「やっべ。面倒くさいことになった」
 ヘッドホンを耳から外して億劫そうに立ち上がると、少年はプールサイドへと近づいて足から垂直に飛び込んだ。水の中はひんやりして心地よかった。少女が彼のもとにゆっくり近づいてくる。彼女の水着がセパレートなのがわかって彼は緊張した。
「よっ」
「髪切ったのわかる? CLIPで切ってもらったんだー。ほら栗尾さんが切ってもらったところ」
「栗尾さん?」
「栗尾美恵子さんだよ、OLIVEモデルの。まあ小樽くんは知らないよねー」
 髪型は変わったが、少年をいちいち小馬鹿にする少女の態度は変わっていない。
「富山くんや大和くんたちと一緒?」
「ちがうよ、ひとりだよ。奴らは今ごろ新島」
「げっー、新島?」
 少女は顔をしかめてゲロを吐く真似をしてみせたが、それは当時新島という地名を聞いた女子中学生の反応としては真っ当なものだった。そのリアクションを見て、彼はこの件についてはもう話すまいと心に決めた。
「空津は?」
「わたしは月曜からずっとここ。ひとりで夏休み中」
 てっきりプールにだけ入りにきたのだと思っていた少年は意表をつかれた。
「あれっ? 空津んちってすぐそばじゃなかったっけ」
「うん、千駄ヶ谷。そういえばわたしたち、つながってるよね」
「は?」
「ほら、小樽くんちって錦糸町じゃなかったけ。総武線でつながっている」
「だからなんなんだよ?」
「あんたんちだってそんなに遠くないってこと。人に訊きたいんなら何でひとりでここにいるのか先に話しなさいよねー」
「話す必要なんかねえだろ」
「さっき小樽くんがわたしに気づいたのに無視しようとしていたの、見てたからね」
 まずい。少年は自分の行動に尾鰭がついて、少女から女子テニス部員を通じて男子部員たちへと広がっていくのを恐れた。正直に話すしかない。
「俺の伯父さん夫婦がさ、お盆にこっちに来るから一緒にホテルに三泊して東京を案内してくれって先週突然言ってきたんだよね。俺にも旅行の予定とかあったのにさ……。でも今日来てみたらさ、いねえでやんの。別の用事で行けなくなったから、自由に飯でも食って一泊していってくれってファックスが届いていた。ざけんなよって。まあ、いつもそんな感じなんだけどな」
「ヒドい。なんで従ってんの?」
 てっきり冷やかな反応をすると思っていた少女が意外なほど親身だったので、少年は友人にも話していない境遇を語りたくなった。
「あのさー、うちってあんま金がある方じゃないんだわ。せっかく京南に合格したのに区立中に通ってほしいって親が言い出すレベルで。そうしたら伯父さんが学費を出してくれることになったんだよね。だからあの人には絶対服従なの」
「そうなんだー。でもそういう小樽君の生き方ってなんかシブいよね」
 1985年当時、「シブい」はかなりの褒め言葉だったので、少年は救われた気持ちになった。
「空津はなんでひとりでいるんだよ? 須田とか美倉は?」
「あの子たちは軽井沢。誘われたんだけど断っちゃった。お盆の軽井沢ってさ、東京より混雑してるんだよ。わたしって本当は人混みが苦手な人なんだよね。邪念っていうの? そういうものを人より強く感じちゃうから」
 合宿中いつも女子たちの中心にいた少女を見ていたので、少年は不思議だった。彼女は話を続ける。
「たぶんお母さんからの遺伝なんだと思う。あの人って人間の邪念だけじゃなくて動物の感情まで感じちゃうから部屋にずっと閉じこもっていたし」
「お母さんは今どこにいんの?」
「いないよ。小三のとき死んじゃった」
「ごめん」
「いいよ、別に」
「お父さんは?」
「元気だよ。お盆の週はお手伝いさんが里帰りするから、いつもはお父さんと下田の別荘に行ってるの。でも今年はお父さんがお盆ぎりぎりまで中国に出張するから近くで休みたいって言い出して。それでこのホテルになったんだよね」
「それなのに父さんはいないんだ?」
「ほら、火曜日にジャンボが墜落したでしょう? 会社の人たちが大勢乗っていたみたいで、ずっと会社に泊まり込んでるの」
「うわ、大変だな」
「でもわたし、知ってるんだよね。本当はあの人、先週には内緒で出張から帰ってきていて女の人と旅行していたって」
「その女の人って、もしかして夕ぐれ族ってやつ?」
「ちがうよー。わたしも何度か会ったことがあるんだけど美人だし凄くいい人。マリーナさんっていうんだけどお父さんとはずっと友達だったみたい。湊くんって男の子がいるんだけどその子も凄く可愛いんだ」
「ふーん、嫌いじゃないんだ」
「うん、大好き」
 完璧な環境で育ったように見えた少女が、複雑なバックグラウンドを背負っていることに少年は動揺した。彼女を傷つけないためにも話題を変えなければいけない。
「それにしてもなんで浮き輪なんかしてんの? もしかして泳げないとか?」
「一応泳げるよ。これには深い理由があるんだよね。昨日、戦後四十周年だったでしょう?」
「ああ、そういえば」
「わたしのお父さん、毎年十二時の時報で一分間きちんと黙祷する人なの。わたしもやってるんだけど、今年は節目の年でしょう? 記念にプールの中で黙祷しようと思ったんだよね。それで時報と同時に潜ったの。でも足がつって溺れちゃって。ライフガードさんに助けてもらわなかったら死んでた」
「お前、昨日溺れ死にそうになったのにプールに来てんの?」
「うん、やらなきゃいけないことがあったからね。どうしてもプールに入りたいってライフガードさんにお願いしたら、浮き輪を付けてならいいって言われた」
 だからずっと監視されていたんだ。
「小樽くん、走馬灯って知ってる?」
「人が死ぬときそれまでの思い出が駆け巡るっていうアレだろ?」
「そう、それ。でもわたしってまだ中二じゃない? だから溺れたときにそれまでの思い出じゃなくて、これからの思い出が駆け巡ったみたい。映画の予告編みたいにシーンが切れ切れなんだけど大体の内容はわかるって感じ」
 それはおそらく少女の潜在意識下の願望が具体化したものに違いないと、少年は考えた。
「へー、どんな内容? 結婚とか子どもを産んだりとかもするわけ?」
「うん、でも結婚より先に子供を産むみたい」
「いつ?」
「高一のとき」
「それ、めちゃくちゃ早くないか? 相手は誰?」
「わかんない。それでわたし、父さんとマリーナさんを再婚させるためにその妊娠を利用するみたいなんだよね。ふたりの子どもとして育ててよとか言って。あの人たちはわたしのお願いを受け入れる。生まれた赤ちゃんは女の子で、わたしと湊くんの妹として育てられる」
「それで相手の男が大学を卒業したときに結婚するとか?」
「ううん。結婚相手は違う男の人。男の赤ちゃんも育てたいなって思ったときに、小さい男の子がいる人と知り合うみたい」
 少年が予想していた願望とは随分と異なっている。
「空津って会社の社長とかになりたいんだと思ってた。男女雇用機会均等法だっけ? あれも法律になったしさ」
「わたしもそのつもりなんだけど、29歳で死んじゃうみたい」
 早死に願望なんて子どもっぽいなと、28歳の自分を想像できないにもかかわらず少年はそう思った。
「どういう風に死ぬんだよ?」
「夜中に家が燃えちゃうんだ。理由はわかんないけど、お父さんの煙草の不始末じゃないかな。あの人、禁煙パイポを試してもダメだったし。家族はみんな無事に外に避難するんだけど、ちょうど今のわたしくらいの歳になった娘が泣き喚きだすの。『マイロが中にいる!』って」
「マイロ?」
「そのとき飼っている猫の名前。娘もわたしからの遺伝で、必死に助けを求める意識を感じ取ったんだろうね。それでわたしは家の中に戻ってマイロを助けだすの。でもそのとき肺に煙が入ったんだろうね。息ができなくなって目の前が暗くなる。その後のシーンはない。だから多分わたしの人生はそこで終わり」
「すげえ夢だな」
 少女はまっすぐ少年を見つめた。瞳に夏の太陽が映り込んでいる。
「夢じゃなくて、これは予言だよ。だって小樽くんとプールの中で話をしているシーンもあったんだから。やんなきゃいけないことっていうのは、このことだったんだよね」
「なんだよ、それ。俺を偶然見つけただけなのに話をふくらますなよな」
 少女は、目をそらそうとする少年の視線を言葉で制した。
「そう考えても構わないけどさ、小樽くん今日から何週間か後にわたしに謝ることになるんだからね。さっき話していた予定していた旅行って、富山くんたちと新島に一緒に行くことだったって」
 少年は黙り込んだ。陽の光は一層強くなって蝉が鳴き声のボリュームを上げた。
「このあとどうするつもり?」
 そう訊かれても何も思い浮かばない。ホテルの部屋に帰ってひとりでテレビを観ようにも今年の甲子園は終わったも同然だった。KKコンビがいるPL学園に勝てるチームなんているわけがない。土曜日なので「夕やけニャンニャン」の放映もなかった。
 少年の膝を、少女が柔らかい足の裏でぐいっと押した。
「わたしの部屋の冷蔵庫にハーゲンダッツあるんだけど、食べる?」


『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク


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