インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第八話:ハイチ式離婚(アイ・ウィル・セイ・グッドバイ) 新宿東口

illustration_yunico uchiyama

インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第八話:ハイチ式離婚(アイ・ウィル・セイ・グッドバイ) 新宿東口

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毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。混乱を極める東京の今と過去をつなぎながら、シーズン2には新たな登場人物たちを迎え、さらに壮大なナラティブを紡ぐーー

【あらすじ】 空津海舟(からつ・かいしゅう)と渚(なぎさ)は、新宿区役所に離婚届を出した後、一緒に昼食をとるために“あの店”へ向かっていた。特別な日じゃない、ただの空き時間に立ち寄るのが似合う“あの店”へ。そしてふたりは、靖国通りの横断歩道を渡らずに地下への入り口を降りていく……。

「なにか辛いものがいいわ」
 新宿の靖国通りに面した交差点で、昼食に何を食べたいかを相手に尋ねてそう返されたら、大抵の人間は言うだろう。
「じゃあ中村屋にするか」
 空津海舟もそのひとりだった。しかし渚は彼の目も見ずに提案を却下した。
「そんな本格的な感じじゃなくていいの」
 なるほどと、海舟は思った。昭和2年からインドカレーを提供し続けている老舗の中村屋には、新宿東口の特別な日の香りがする。ようするに伊勢丹や三越でショッピングを楽しんだあと、紀伊國屋で本を買う休日のことだ。こうした晴れの日において中村屋は、高野フルーツパーラーと並ぶ食事処として機能していた。
 そんな場所で昼食を楽しむ男女として相応しいのは、リラックスした格好をしたカップルもしくは夫婦にちがいない。しかし海舟と渚は新宿区役所に離婚届を出してきたばかりである。海舟はグレンチェックのスリーピースのスーツを着てネクタイを締めていたし、渚もグレーのワンピースの上にトレンチコートを羽織っていた。しかもこの日は平日だった。
 さて、どうしたものか。少しの間考えて、海舟は代案を思いついた。
「よし、あそこにしよう」
 “あの店”には空き時間の香りがする。そういう時間は、行くはずだった接待ゴルフが雨かなにかで中止になったり、家族が皆それぞれ別の用事で出かけた後で不意に訪れる。
そんなとき、海舟は千駄ヶ谷から総武線に乗って新宿で降りて“あの店”で昼食をとったあと、ジャズ喫茶のDUGや中古レコード店のディスクユニオンで暇を潰していた。
「そこ、遠いの?」
 渚は手にしていたクロコダイル皮のハンドバッグのほかに、キャスターが付いたスーツケースをひきずっていた。
「すぐそばだ」
 海舟は渚からスーツケースを奪い取ると、靖国通りの横断歩道を渡らずに地下への入り口を降りていった。スーツケースを両手で持った彼の息が荒くなった。そのあとを渚もついていく。

 狭い階段を降りきると、そこは30センチ角の白いタイルが敷き詰められた幅4メートルほどの地下道の出発点だった。どこまでも奥へと伸びる通りの左右には小さな店舗が軒を連ねている。海舟が少年時代を過ごした浅草や上野の地下街ほどではないものの、2002年10月の時点ではそれは古色蒼然としたものに感じられた。
 その雰囲気から渚は自分がどこにいるかを察した。
「あっ、西武の駅に繋がっている地下街ね」
「ああ、新宿サブナードだ」
「新宿ってどうして西武線の駅だけ離れているんだろう。わたし、西武に乗り換えるたび、なんでこんなに歩かされるんだろうって思っていた」
 海舟は遠く離れたふたつの駅が長い地下道で繋がれた理由を知っていた。第一機械工業に入社して間もない約四十年前、彼はある工事の担当だったからだ。
 その工事とは、幻の西武新宿駅だった。1952年、西武鉄道はターミナル駅として歌舞伎町に西武新宿駅を開業した。歌舞伎町は戦後、歌舞伎演舞場を中心としたエンターテイメント街を作るべく新たに開発された街だったため、開業当時の駅周辺は閑散としていたという。
 もっとも西武鉄道にとってそこはあくまで仮駅舎であり、最終的には国鉄の新宿駅東口と直結した場所に駅を移設する予定だった。駅の改札は新たに建設されるビルの1〜2階に、ホームは駅前広場舗道部分の空中に作られるはずだった。
 ところがホームの設計に内在していた不備が発覚した。電車が6両までしか停車できなかったのだ。西武新宿駅は歌舞伎町に留まらざるをえなくなった。  東京オリンピックが開催された1964年に竣工した複合ビル、新宿ステーションビル(1978年にマイシティ、2006年にはルミネエストに名前が変わった)に奇妙な吹き抜けがあるのは、改札の名残なのだ。
 いまふたりが歩いている新宿サブナードは、ほかの路線と西武新宿線とのアクセスを少しでも快適なものにしようと1973年に開業した地下ショッピングモールだった。

 海舟と渚は、靖国通りの地下を東西に延びる地下街を、新宿大ガード方面に向かって歩いた。目指す店、カフェ・ハイチは行き止まり付近にあった。
店の外観には、黒く塗られた細い化粧柱が等間隔に配置されていて、異国情緒を振りまくとともに柱の隙間から店内が窺えるようになっている。昨今人気のエスニック・レストランはスタイリッシュな反面、入りづらいのだが、70年代に開業したカフェ・ハイチは手書きのポップが至るところに貼ってあり、サラリーマンも立ち寄りやすい気さくな雰囲気を醸し出していた。
 30席ほどの小さな店だったが、すでに午後1時を過ぎていたせいか、ふたりは待たずに席に座われた。海舟は、水を運んできた店員にドライカレーとコーヒーのセットをふたつ注文した。
 天井からぶら下げられたマラカスや仮面、藤製の籠を見上げながら渚は感想を述べた。
「ああ、ハイチってあのカリブ海の島国のことなのね。でも何だかハワイっぽいわ。トレーダーヴィックスみたいだもの」
 渚は、千駄ヶ谷の家を出たあとホテルニューオータニに滞在していた。トレーダーヴィックスとは、ホテル内にあるハワイのティキバーをモチーフにしたレストランである。
 アメリカ人の父親が国防省の職員だった関係で、彼女は太平洋上の米軍基地を転々としながら育ったことを海舟は久しぶりに思い出した。
 大企業の重役の妻としての役割をあまりにも自然にこなしていたため、海舟は渚の生い立ちをすっかり忘れ、生まれも育ちも日本であるかのような錯覚に陥っていた。しかし今日を境に、彼女は空津渚からマリーナ・ナギサ・フィッシャーに戻るのだ。
「このあと何処に行くつもりだ」
「湊の様子を見たいから一旦ロサンゼルスに行きます」
「あいつ、ちゃんとやっているのか?」
「勉強の方はわからないわ。でも誰とでもうまくやれる子だから楽しくやっているみたい」
 今年二十歳になる湊は高校卒業後、ロサンゼルスの演劇学校に留学中だった。渚と前夫の子だったため、海舟とは血が繋がっていなかったが、父親としての役割を果たしてきたのは海舟だった。
 彼にも死別した前妻、岬との間に娘の満(みちる)がいたが、戦前生まれの海舟にとって女性は不可解な生き物だったし、満は中でも変わった子だった。それと比べると“男の子の父親”の役割は素直に楽しめた。湊がいなかったら渚とは再婚しなかったかもしれない。今回の離婚で自分は妻だけでなく息子も失ったのだ。海舟はそう実感した。
「ロサンゼルスにずっと住むつもりなのか?」
「ううん。サラ叔母さんのところで暮らすつもり。これ以外の荷物は全部そっちに送っているの」
「ハワイ島か。金が足りなくなったら送るよ」
「あれ以上いいわよ。日本で英会話を教えていたのと同じように、向こうで日本語ガイドでもやるわ」
 離婚に伴う渚への財産分与は、海舟が拍子抜けするほど少ない額に収まった。彼が本来は空津家の婿にしか過ぎないことを渚は考慮してくれたようだった。
ふたりが座るテーブルにドライカレーが運ばれてきた。パン皿のような白く平たい皿にライスが薄く敷かれていて、中心部にドライカレーが盛られている。皿の縁には紅生姜が添えられていた。
 店の宣伝文句によると、創業者がハイチ旅行をした際に食べた家庭料理に惚れ込んで再現したのがこのカレーらしい。但しこの料理が本当にハイチ風なのかは疑わしい。そもそもカレーはインド料理である。ハイチにたまたま住んでいたインド人の家庭料理だったとしたら、それはハイチ風とは言えないだろう。ただ一つの確かなことは、紅生姜はハイチ由来のものではないことだった。
「あなたが好きそうな料理ね」
「どこがだ」
「早く食べれそう。あなたって全然食べ物を味わわないんだもの」
「焼け跡育ちの欠食児童だからね」
「還暦超えたおじいさんが何言ってんのよ」
そう言う渚も今年55歳になる。だが相変わらず若々しく、海舟をからかうときには彼が初めて出会ったときの13歳の少女の口調になった。
「あなたはどうするの? 会社を辞めちゃったんでしょ」
「持ち株を担保に銀行から金を借りて投資会社を立ち上げるつもりだ」
「なんだ、つまんない。てっきりまたジャズをやるのかと思ったのに」
「バカ言うなよ」
 大学時代、ジャズピアニストとして一定の評価を得ていた海舟は、プロへの道を模索していた。しかし渚と初めて会った年の翌年、ミュージシャン仲間から聞かされた一枚のアルバムが彼の微かな望みを打ち砕いた。
 アルバムのタイトルは、ビル・エヴァンス・トリオの『Waltz For Debby』。冒頭に収録された「My Foolish Heart」は海舟の十八番でもあったが、ヴォイシングやタイム感は、海舟が崇拝してきたオスカー・ピーターソンを博物館の陳列棚に送り込むかのような斬新なものだった。
 こんな演奏が標準とされる時代がきたら、ジャズの世界では到底生きていけない。海舟は夢を諦め、第一機械工業に就職し、社長のひとり娘の岬と結婚した。たまに余興でピアノを弾いたりジャズを聴き続けてはいたものの、トラウマからビル・エヴァンスのレコードは一枚も持っていなかった。
「洋さんと潮ちゃんは?」
 渚は、満の夫と息子の近況について尋ねた。
「もう駒沢公園に引っ越した。家は元どおりになったし、ずっといていいって言ったんだが」
「遠慮したのよ。でもあんな広い家なのに、あなたと澪だけなのね、今あそこに住んでいるのは。ああ、こんなことになってダディは怒っているだろうな」
 ドライカレーを銀のスプーンで口に運びながら、渚はおどけてみせた。娘と海舟の再婚を誰よりも喜んでいた彼女の父も3年前にこの世を去っていた。
「このドライカレー、ちょっと苦いところが美味しいわね」
 渚の瞳がちょっと潤んで見えた。 
 海舟は、わざと明るい調子で言った。
「フィッシャーさんを怒らせたくないのなら、俺や澪と一緒に住むのもお前の選択肢に入ってくるんじゃないのか」
 渚は今日初めて海舟の目をしっかり見つめて答えた。
「それは無理。考えてみたら予定通りだったのよ。わたし、満に約束したの。あの子が生きている限りは家にいてあげるって」
 そう、すべては満の企みから始まったのだ。海舟は自宅に渚と湊の母子を何度か招待したことがあった。そのとき満がふたりをすっかり気にいってしまったのだ。そして一定の距離をとった関係で満足していた海舟と渚に、ふたりが結婚せざるをえないカードを切った。
「わたしはそれでもまだ気乗りしなかったのよ」
「財産狙いの後妻みたいに言われるのがイヤだったからか」
「そういえばあの頃、週刊誌にそういう記事を書かれたわね。『旧家に入り込んだ謎のハーフ美女』って。美女はともかく、ハーフって差別的な言葉よね」
 それは“第一機械工業のプリンス”と呼ばれた海舟をやっかんだ社内の人間が流した噂だった。もっとも次の週にそれは早くも沈静化した。ふたりの結婚こそが自分の願いだったと、満が中学生らしからぬ流麗な文体で書いた書簡を週刊誌に送りつけたからだ。
「奴ら、あの手紙で手のひらを返したけどな。長年のペンフレンドを可愛いキューピッドが結びつけたとか何とか褒め出して。あんな奴、可愛くもなんともない。憎らしいだけなのに」
 渚は海舟の言葉に、娘への愛情を感じた。
「結婚に気乗りしなかったのは、あなたがずっと友達だったからよ。ほら、わたしってあちこち引っ越していたじゃない」
「色んなところから手紙をもらったな。フィリピンだったりグアムだったり。陥落寸前のサイゴンから送られてきたときは驚いたよ」
「十年くらい会わない時期もあったけど、こんな長い間友達だったのはあなただけだったのよ」
 海舟も同じだった。大学に進学したことで彼は下町の幼なじみと疎遠になり、良家の子弟ばかりの同級生からはよそ者扱いされた。サラリーマンになってジャズ仲間から裏切り者扱いされ、会社には太鼓持ちか敵しかいなかった。妻になった岬はすべてを冗談として受け流す女だった。知り合いは多かったが、親友といえるのは渚だけだったのだ。
「でも結果的に満に押しきられたんだろう。『2001年にわたしは死んじゃうんだから、それまでみんなで楽しく暮らそうよ。そのあと渚さんとは友達に戻ればいい』とか」
 ドライカレーをふたりが食べおわったのを見計らって、青い陶製のマグカップに入ったホットコーヒーが運ばれてきた。別の盆には、砂糖とクリームのほかに小瓶に入ったラム酒が載せられている。
「このラムをちょっぴり垂らすと旨いんだ」
 そう言ったあと、海舟はバツが悪い表情をした。渚は言う通りにして無言で美味しいという表情をした。沈黙のあと、渚は話を切り出した。
「あなた、最後まで満を信じていなかったわよね」
 海舟は岬から満に受け継がれた奇妙な力を信じていなかったわけではない。しかし渚の前ではそれを肯定する態度は決して取らなかった。
「前から言っているだろう、あいつは母親の真似をしているうちに自分も同じ力があるって思い込んでしまったんだって」
「あの子の言葉を信じたからわたしはあなたと結婚したのよ。あの子、いつ自分が死ぬかハッキリわかっていた。そしてその通りになったじゃない」
 ここまではこれまでも何らかの形で語り合ってきた内容だった。ところが渚は海舟がこれまで知らなかった話を始めた。
「聞いたのよ。あの子のお母さま、過去に遡って家族や友達に会うことができたって」
 海舟が岬から聞いて一笑に伏していた能力だった。
「わたし、ワシントンハイツに住んでいたでしょう。たしか15歳の頃だった。あなたからの手紙をバルコニーで読んでいたら、不思議な格好をした日本人の女の子が近づいてきたの」
「子どもはわりと簡単にワシントンハイツの敷地内に入れたって話だぞ」
「それがその子、わたしと話している最中に突然消えてしまったのよ。わたしはずっと自分が夢を見ていたって思い込んでいたんだけど、満からその話を聞いて、そういえばあの子、満に似ていたって思ったの。満が将来家族になる人間に会いにきてくれたんだって。それで信じる気になった。でも……」
「でも?」
「いま考えてみると満というより澪にそっくりなの」
 海舟は返す言葉がなかった。
「澪には伝えておいて。いつでもハワイに遊びに来てって」
「ああ」
 海舟はそう答えたものの、あの子が行くはずがないことを知っていた。 
 ふたりはコーヒーを飲み終えると、話す言葉を失ってしまった。支払いを済ませて店を出ると、渚は口を開いた。
「タクシーでこのまま成田に行きます。むこうに着いたらメールするから。それじゃ体に気をつけて」
 今や空津渚ではなくなったマリーナ・ナギサ・フィッシャーマンは、華奢な体に不似合いな力でスーツケースを持ち上げると、海舟を振り返らずに階段を登って行った。

 彼女の姿が視界から消えるのを見届けてから、海舟は新宿サブナードをJR方面へと歩き、中村屋のビルから地上に出た。
「今日は特別な日なんかじゃない。ただの空き時間だ」
 海舟は自分にそう言い聞かせた。そして新宿通りのツタヤの角を右折すると、今度はメトロ会館の交差点を左折してしばらく歩いて目指す店へと入った。
 そこは、新宿東口に数店舗あるディスクユニオンの中、ジャズ専門のディスクユニオン新宿ジャズ館だった。海舟は、中古アナログレコードの売り場に行くと、ピアニストのコーナーに行き、ビル・エヴァンスの棚で『Waltz For Debby』を探した。しかしあれほどのベストセラーが今日に限って一枚もストックされていない。
「まあ、これでいいか」
 海舟は、代わりのアルバムを手に取ってレジへと持って行った。
 ハイウェイを遠ざかっていく自動車を後ろから捉えたそのジャケットには、『I Will Say Goodbye』と書かれていた。


『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク


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