毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。混乱を極める東京の今と過去をつなぎながら、シーズン2には新たな登場人物たちを迎え、さらに壮大なナラティブを紡ぐ……。
【あらすじ】
丹念潮が、彼の勤める第一機械工業の会長である空津勇から直々に下された命令は、潮の祖父、海舟の『千駄ヶ谷オヤジのご意見無用』というポッドキャストを止めさせることだった。そのサポートにつけられたのは、美人で仕事ができないことで知られる囲間雨。潮と着物姿の雨を乗せたタクシーは、外苑西通りを南下し、庭園美術館前の交差点で目黒通りに入り、西に進路を変えると目黒川を渡ったところで停車した。潮は自分がどこに連れていかれるのか知らないまま雨についていくと……。
2020年8月15日 午前11時 目黒通り
僕と囲間さんを乗せたタクシーは、千駄ヶ谷を出発すると外苑西通りを南下していった。行き先がどこか気になるけど、囲間さんには訊けない。彼女は真剣な表情で誰かと電話している。
「うん、そうなの。ミサオちゃん、やっぱりお姉ちゃんたち捕まらないかなあ……ダメかあ。うん、わかった。ひとりで何とかやってみる」
青山霊園と西麻布を通り過ぎ、庭園美術館前の交差点で目黒通りに入ったタクシーは、西に進路を変えると目黒川を渡ったところで停車した。インテリアショップが多いエリアである。囲間さんはタクシーを下車すると、目の前にあるグレーのタイル張りの小さなビルに入っていく。僕もあとを追って中へと入った。
そこはガラスケースが整然と並んでいて、すでに何組かの来訪客がそれを見て回っていた。一見、企業のショールームのようだ。でもケースの中を覗いても商品らしきものは見当たらない。代わりにあったのは、塵のようなものが収められた瓶やシャーレだった。
「これは何ですか?」
「寄生虫」
「きせいちゅうって、動物の体内にいるあの寄生虫?」
「だってここ、目黒寄生虫館だもの」
「噂には聞いていたけど、ここがそうなんですか。でもなんでこんな所に来たんです?」
「これから分かるから」
囲間さんは、展示室の奥にある階段をあがっていった。彼女についていくと、二階にも展示が続いていて、天井の高さいっぱいのガラスケースの中に長く白い物体が幾重にも折り畳められて収まっていた。カップルや親子連れが、その巨大さに圧倒されている。僕は展示の説明文を読んだ。それは体長8.8メートルのサナダムシだった。
「こんなものが本当に人体の中にいたのか?」
そう思った瞬間、非常ベルが鳴り、スピーカーから館内放送が流れだした。
「火災報知システムのテストです。恐れ入りますがお客様は一旦、二階展示室から退去をお願いします」
階段に向かう他の客についていこうとしたら、囲間さんに制止された。
「いいから、ここにいて」
窓にシャッター、階段への出入り口に防火扉が矢継ぎ早に下りると、部屋は真っ暗になった。やがて照明がつくと、フロアに深みのある声が響き渡った。
「これは、これは。囲間家の雨様ではありませんか。お久しぶりですな。それにしてもお美しくなられて」
ふと壁を見ると、ガラスケースの中のサナダムシがムズムズ動いている。声はサナダムシから発せられているのだ。それなのに囲間さんは驚くどころか微笑みながら返事をする。
「おじさまもお元気そうで」
「一緒にいるのは、もしかして彼氏っすか?」
サナダムシとは違う甲高い声が背中の方から聞こえてきた。振り返るとエキノコックスが収められた瓶が小刻みに光を放っている。
「エキノコックス、冗談を言わないで。お嬢様がこんな庶民とお付き合いするわけがないじゃない。下男に決まっているわ」
また違う声が聞こえたので、そちらの方向に目を向けるとアニサキスの瓶がゆらゆら揺れていた。
「寄生虫ってテレパシーで話すことができるんだ……」
僕が思わず漏らしたひとり言にサナダムシが反応する。
「ほう、察しが良いですな。普通の方ではないようだ」
僕は答えた。
「いやー、僕は平凡そのものなんですけど、身内に変わった人間が多いもので」
「そんなお方を連れて雨様がここに来られた理由は何ですかな?」
サナダムシにうながされて、囲間さんはさきほどの空津家での体験を話しはじめた。
「つまり空津海舟さんがネトウヨになったのは、特定の悪霊に取り憑かれているわけではなく、空気のように薄い妖気を2002年くらいから吸い続けた結果だと雨様はお考えになられているんですね」
「はい。でもそれだけじゃないんです。これは空津家に限らず東京全体の現象に思えてならなくて。おじさまたちなら、私たち一族にもわからない東京の微かな変化を感じとっていたのではないかと考えて、こちらまで伺ったんですけど」
サナダムシは困った声を出した。
「残念ながら我々も気づきませんでした。そもそも時代の予兆を感じとったら、いの一番に囲間家にご報告いたします。バブル崩壊のとき、あなたのお父様にお知らせした時のように」
「そうですか……」
囲間さんは睫毛を伏せた。スーパー可愛い女子の表情が沈んでいくのに耐えられなかったのか、エキノコックスがわざと明るい声を出してフォローする。
「確かに2002年頃から空気が澱んできた気はするんだけどなー」
アニサキスがツッコミを入れる。
「空気が澱んで感じるのは、夏の気温があがったからでしょ。それは邪悪なものなんかじゃなくて地球温暖化のせいよ」
アニサキスの発言を聞いた僕は、さっき会長が話した内容を思い出した。電通はもともと聖路加病院の隣地にオフィスを構えていたけど、2002年に汐留シティセンターが竣工すると移転した……。僕は寄生虫たちの会話に割って入った。
「夏の気温があがった原因は地球温暖化だけじゃないですよ。2002年に汐留に高層オフィスビルがオープンしました。その前後には豊洲や東雲にタワーマンションがいくつも竣工しています。湾岸エリアに高いビルが立ち並んだため、熱気が海に流されず都市部に滞留するようになって、東京のヒートアイランド化が加速したと言われているんです」
サナダムシが言った。
「興味深い考察ですな。それはもしかすると暑さだけでなく妖気にも当てはまるかもしれない」
囲間さんが尋ねる。
「どういう風にですか?」
「妖気は2002年以前から発生していたが、風で海上に吹き飛ばされていたから問題は顕在化しなかった。ところが湾岸エリアに高層ビルが建ったために東京上空に滞留するようになり、東京でネトウヨが増加しはじめたのではないでしょうか」
囲間さんが反論する。
「でも妖気が入ってくるのは大抵鬼門の方角からでしょう? 江戸時代の昔から、私たち一族は鬼門から裏鬼門へと至る気の流れには注意を払い続けてきたはずなのに」
僕は囲間さんに質問した。
「あのー、鬼門って東北のことですよね。別の方角、たとえば北西から妖気が出ている可能性ってゼロなんですか?」
囲間さんが自問自答する。
「北西? 考えられるとしたら巣鴨……あそこには卒塔婆が立っている……でもひょっとしたら」
巣鴨? 卒塔婆? 何を言っているのかさっぱりわからない。でも彼女は決心を固めたようだった。
「ありがとう。問題解決のヒントを頂きました。これから行ってまいります」
サナダムシが心配そうに体をくねらせた。
「雨様、どうかお気をつけて。嫌な予感……それこそ虫の知らせがするのです」
2020年8月15日 午前12時 池袋
目黒駅から山手線に乗った囲間さんは池袋駅で下車した。「巣鴨」と言っていたはずなのに。僕は黙ってついていくしかない。
池袋は、山の手三大副都心の一つである。かつては他の二つの副都心である新宿や渋谷と比べると洗練されていないと評されていたが、時代の流れが評価を変えた。沿線住民が高齢化したため、街としてのあり方を変えることを迫られている新宿・渋谷とは異なり、池袋に乗り入れている東武線や西武線の沿線住民は比較的若い。そのためショッピング・スポットとして依然活況を呈していて、前日に都内で389人の新型コロナ感染者が発覚したにもかかわらず、改札口では大勢のショッピング客が乗り降りしていた。
ショッピングといえば、池袋は西口側に東武百貨店、東口側に西武百貨店がある紛らわしさでも知られているけど、囲間さんがこの日降りたのは東口だった。彼女は駅の外に出ると大通りをまっすぐ歩き出した。
「囲間さん、さっき巣鴨って言っていたのになぜ池袋で降りちゃったんですか?」
「巣鴨っていうのは駅のことじゃないんだよね。あれ」
そう言って囲間さんが指をさした先には青白く輝く超高層ビルがそびえ立っている。
「あれってサンシャイン60ですか?」
「そう。でもあのビルが立つ前は拘置所だった。第二次世界大戦後、拘置所は占領軍に接収されて『巣鴨プリズン』と呼ばれたんだよね。東京裁判で裁かれた戦犯はあそこで刑期を務めたり、処刑されたりしたの」
「処刑も、ですか。そういうのってひっそりした場所で行われるもんだと思っていました」
「しかも大人数なの。映画やドラマでよく取り上げられるのは戦争指導者中心のA級戦犯だけど、死刑になったA級戦犯は実は7人しかいない。対してBC級の戦犯は900人以上も死刑が執行された」
900人も。
「死刑になるほどの犯罪ってどんな内容なんですか? たしかに戦争自体が残虐ですけど、戦闘中に相手を殺すことは罪に問われないんですよね?」
「たしかに戦闘中に相手を殺しても法には問われない。でも一旦捕虜にしたら、相手を虐待しては絶対いけないと国際条約で定められているの。でも日本軍の場合、そんな条約があるとは知らずに『敵を殲滅せよ』という上官の命令を愚直に実行した兵士が大勢いた。彼らは戦後、捕虜の殺害や虐待の罪に問われるようになった」
こういう話をするときに用いるロジカルな物言いを、なんで囲間さんは会社の仕事に活かせないんだろうと思いながら、僕は質問を続けた。
「でもその場合、真に罪に問われるべきなのは部下にそう吹き込んだ戦争指導者たちですよね?」
「弁護側もそう主張したけど、具体的な命令書が存在しないことがBC級戦犯に不利に働いた。阿吽の呼吸とか忖度といった日本的なメンタリティは考慮されなかったのよね。しかも遺骨は、英雄として祀られるのを避けるために占領軍によって海中に投棄されたの」
「死刑になった人は無念としか言いようがないですね」
「その通り。だから1970年代に拘置所を閉鎖して跡地に商業施設を建てる計画が持ちあがったとき、恐ろしい祟りがあるんじゃないかって、わたしの家族に相談があった。その頃の当主だったお爺さまは、ビル全体を白くて細長い形にすることを提案された。お姉さんがお父様から聞いた話によると、卒塔婆の形を模しているんだって」
「卒塔婆って、墓石に刺さっている木の板のことですか?」
「そう。つまりサンシャイン60そのものが卒塔婆になって、あの土地に漂っている残留思念を鎮めているわけ。だから妖気なんて吹き出すわけがないのよ」
囲間さんはそう話しながらも、大通りからサンシャイン60へと分かれる交差点の前で動けなくなってしまった。
「どうしたんですか?」
「おかしい。サンシャイン60の方角からもの凄い妖気が吹き出している」
僕は何も感じなかったけど、囲間さんはこれ以上一歩も先に進めなさそうだった。僕は周囲を見回すと彼女に提案した。
「コーヒーでも飲みながら作戦会議しませんか? あそこのロッテリアかカフェ・マーメイドで」
囲間さんも辺りを見回していたが、北の方向を見た姿勢で立ち尽くした。
「丹念君、あれが何か知ってる?」
彼女の視線を追うと、サンシャイン60に負けないくらいの高さまでそびえたつ煙突が見えた。僕はそれが何なのか知っていた。第一機械工業の取引先だったからだ。
「あれは豊島清掃工場、いわゆるゴミ焼却場です。プラント事業部がゴミ焼きプラントを納品していることが、会社のホームページにも載っていましたよ」
「なんで煙突があそこまで高いの?」
僕はホームページに書かれていたことを説明した。
「ここって都心のど真ん中じゃないですか。普通の高さの煙突だと、オフィスビルや住宅に排煙の影響が出てしまう。それを避けるために200メートル以上の高さにしたそうです。そうすれば排煙は遥か上空で風に吹き飛ばされるから、人体に影響が出ることがない」
囲間さんは煙突を凝視したまま呟いた。
「サンシャイン60が卒塔婆だっていうのはお父様の勘違いだったんだ。お祖父様があんな形のビルにしたのは“妖気の煙突”にするため!」
そういうことか。以前は地中から噴き出している妖気は、サンシャイン60の高さまで吹き上がってから、風で海上まで飛ばされていた。でも湾岸の高層ビルによって阻まれて都内で滞留するようになり、それがおじいちゃんみたいな人たちの心にじわじわと浸透していってネトウヨにしていたんだ。
僕らがサンシャイン60の真実に気づいた時、奇妙な音が四方八方から聞こえてきた。
「ブッブ、パッ! ブッブブッ、パッ!」
「この音はもしかしてヒューマン・ビートボックス?」
気がついたとき、囲間さんと僕は大勢のBボーイに包囲されていた。
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
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PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。
https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000
『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters
2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税
著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク