インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第十三話:ロボット 都内某所編

illustration_yunico uchiyama

インナー・シティー・ブルース シーズン2
長谷川町蔵 著
第十三話:ロボット 都内某所編

illustration_yunico uchiyama

毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の連作短編シリーズ「インナー・シティ・ブルース」。混乱を極める東京の今と過去をつなぎながら、シーズン2には新たな登場人物たちを迎え、さらに壮大なナラティブを紡ぐ……。

【あらすじ】
丹念潮は、本業のほかに、投稿サイト「小説家になりたい」で自らの家族・親族をモデルにした大河小説「空津サーガ」をこつこつと書いている。2020年の晩夏のある日、潮は気分が優れず、体温を測ってみると38度だったので、その日は風邪薬を飲んでから早めに寝床についた。しかし翌朝目覚めると体全体に異変を感じて、体温を測ると40度に。自宅近くの病院へ行くとPCR検査を受けてほしいと医者から言われ、その場で保健所に電話されて “都内某所”に行くことに……。

2020年8月21日(金) 
 仕事を終えてそのまま駒沢公園にある実家へ。父は一週間遅れの盆休みで不在。投稿サイト「小説家になりたい」に書いている「空津サーガ」の続きに取りかかりたい。
 早速執筆を始めようとしたけど何だか気持ちが悪い。体温を測ったら38度を超えていた。風呂に長い時間浸かって風邪薬を飲んでから22時頃に就寝。

8月22日(土)
 起きたら体全体が熱い。体温を測ったら40度ジャストだった。
 決死の思いでベッドから這い出し、家から一番近い内科病院に何とかたどり着いたが、熱がある場合は屋外で待てと言いわたされる。勝手口に面した薄暗い回廊にポツンと置かれた折り畳み椅子で待つこと1時間。趣味で病院に通っているような年寄りが待合室のフカフカのソファーに座っているのに重病人が野ざらしとは。
 まるで野戦病院であるかのように勝手口前で屋外診察を受ける。採血したら感染症の可能性があるのでPCR検査を受けてほしいと医者から言われる。その場で保健所に電話されて、15時に“都内某所”に行くことになった。
 “都内某所”と書いたのは、風評被害を防ぐために口外しないでほしいと案内書類に書かれているから。検査結果が出るまでは買い物や公共交通機関の利用は禁止とのこと。解熱剤をもらって一旦帰宅。
 “都内某所”にタクシーで行き、時間外出入口からからこっそり入る。施設内にはマスクと帽子と手袋で完全武装した所員が待ち構えていて、書類と保健証を確認し終えると、廊下に立たされたまま鼻の穴に棒をつっこまれた。痛い。明日午前には結果が判明するらしい。「くれぐれも外には出かけないでください」と釘をさされる。
 アプリでタクシーを拾って帰宅。手足の関節が痛くなってきた。23時頃就寝。

8月23日(日)
 午前9時頃、保健所から電話。
「丹念潮さんですね? 新型コロナ陽性反応が出ました」
 えらいことになった。
 なにか心あたりがありますかと訊かれたので、いつもはアパートと職場を行き来しているだけなので、感染したとしたら8月15日に仕事で池袋に行ったとき以外は考えられない。でも誰からうつされたかは分からないと話す。
 現在の体温を聞かれて「解熱剤を飲んだので37.3度まで落ちました」と答えたら、「これからは解熱剤なしで過ごしてください。明日の朝に37.5度以上だったら入院です」と告げられる。「37.5度未満は自宅療養ですか?」と尋ねたら「ホテル療養になります」と言いわたされた。
 東京都の定めによると、療養期間は「発症日から10日間且つ72時間平熱を保つまで」。つまり8月21日に発症したぼくの場合、少なくとも8月31日まではホテル療養しなければいけない。でもホテルに缶詰なら「空津サーガ」に集中できる時間を作れる。何とか熱が下がってくれと、信じてもいない神に祈る。
 帰省中の父と湊兄ちゃんにLINEで報告後、自分のせいでPCR検査を受けなければならなくなった人たちにお詫び電話。発症日から遡った一定期間内にぼくと至近距離で話をした人間は、コロナに感染している可能性があるため検査義務があるのだ。
 電話をかけた相手は澪姉ちゃんと海舟おじいちゃん、部署の上司と同僚、そして会長秘書。囲間さんにもかけたけど留守電だった。

8月24日(月)
 朝イチの体温は37.1度。保健所から電話があったので体温を伝えると「それではホテル療養してください」と言われる。
 療養は明日午後からで、費用は無料。どのホテルになるかは当日にならないとわからないそうだ。現時点で東京都が定めた療養先は9つあって、どれも出張ビジネスマン向けビジネスホテル。品川駅前のプライスホテル・ノーザンタワーだけがちょっとだけデラックスなのを除くとグレードは大差ない。
 外出を禁止されているため、実家にあるものだけで6泊7日分の物資を揃える。ネット上のホテル療養体験記を見たら、暖かい飲み物は提供されないらしい。慌ててインスタント味噌汁と粉コーヒーのスティックをかき集め、着替えとタオル、充電器と一緒にリュックに詰め込んだ。
 上司から電話。今日はオフィスが閉鎖され、清掃業者が除菌作業を行っているそうだ。「ご面倒かけてすみません」と謝ったが、上司は「誰も気にしてないから」と淡々としている。同じ日に本社オフィスで陽性反応者が出たため、それどころじゃないらしい。
「ほら、名前忘れちゃったけど、すごい美人なんだけど全然仕事ができない子いるじゃないか。彼女が……」
 囲間さんだ。夜、澪姉ちゃんから電話。おじいちゃんとPCR検査を受けたとのこと。

8月25日(火)
 体温が平熱まで落ちていた。10時30分頃、保健所から電話。療養先が決まる。ここではやはり風評被害を考慮して“都内某所”としておこう。ネットでホームページにアクセスしたら、部屋の窓から隅田川と首都高と東京スカイツリーを望む写真が出てきた。これなら執筆が捗りそうだ。
 14時半ちょうどに待ち合わせ場所にワンボックスカーが迎えに来る。特に渋滞することもなく15時に現地到着。エントランス前にはマスクと帽子と手袋で完全武装したスタッフが待機していて、そのまま建物内に入って自動扉脇の机に置かれた書類を読んでそれに従ってほしいと指示される。がらんとしたロビーには、チョッパー君がぽつんと設置されていて、甲高く金属的な声でぼくに話しかけてきた。
「こんにちは」
 チョッパー君を知らない人はさすがにいないと思うけど、一応説明しておこう。チョッパー君とは、業界第3位の携帯電話会社「ハードパンク」が2014年に開発した人工知能搭載ロボットである。発表時には人間顔負けな接客が可能という触れ込みだったけど、実際はそれほど器用なやりとりができるわけでもなく、2020年時点では存在自体が謎と化していた。
 机には封筒が何枚か置いてあった。その封筒の数が本日チェックインする療養者数なのだろう。「丹念潮様」と書いてある封筒の中に「616」と書かれた紙があったので、エレベーターで6階まで上がり、やはり封筒に入っていたルームキーで616号室にチェックインした。
 部屋に入った瞬間、ぼくは絶望した。広さが6畳ほどしかないことは理解できる。オレンジとブラウンを基調とした垢抜けない内装もまたしかり。問題は窓からの景色である。窓のすぐ外まで隣地建物の壁が迫っているせいで、景色という概念そのものが存在しないのだ。まるで独房である。ホームページに騙された。
 昨日PCR検査を受けた家族や会社の人間が全員陰性だったことをメールで知って、ホッとする。16時30分頃、内線電話が鳴る。看護師からだった。エレベーター内の階数ボタンのうち2階と3階が赤いガムテープでマスキングされていたことを考えると、そこに常駐しているのだろう。
 封筒に入っていたパルスオキシメーターの操作方法を電話ごしに教わる。療養中は毎日7時と16時30分にこれで酸素濃度と脈拍を測り、指定されたURLにスマホでログインして体温とともに数値を記入して下さいと指示される。スマホを使えないお年寄りは体調管理をどうするんだろう。
 18時に館内放送が夕食の時間を知らせる。ホテルによっては部屋の前まで届けられるところもあるそうだけど、ここでは8時、12時、18時に1階ロビーに外部から弁当が届けられ、それを各自が取りに行くシステムになっている。ロビーで食事することは禁止されていて、自室に持ち帰って1時間のうちに食べ、また1階までゴミを捨てに行かなければいけない。
 ロビーに下りると、食料を求める人々がすでに群れをなしていた。噂とちがって電子レンジがあったので弁当を温めることは出来る。夜食用なのか、やきそばUFOも置いてあってそれを手にしている者もいた。社内でコロナに最初に感染した関西支社の先輩によると、京都のホテルにはUFOのほかにうまい棒も置いてあって食べ放題だったそうだ。
 ドリンクはペットボトルのミネラルウォーター、緑茶、麦茶、ほうじ茶が折り畳みテーブルの上にずらっと並べられていて自由に取ることができる。療養中という建前があるためアルコールはなし。スイーツ類も一切置いていなかった。
 この晩、提供された食事はハンバーグ弁当。シール表記を見たら牛豚の合い挽き肉だった。療養マニュアルには「決められたメニュー以外は提供できません」と書いてあったが、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒に対してもこのメニューを提供するつもりなのだろうか。
 「空津サーガ」に取り掛かるも、すぐ疲れてしまったため、12時に就寝……するつもりが騒音がひどくて眠れない。窓の外からではなくドアの外から騒音が聞こえてくるので開けてあたりを見回したら、換気のために開放されている廊下の窓からトラックが猛スピードで行き来しているのが見えた。この階は高速道路の路面とちょうど同じ高さだったのだ。これでは道路側で野宿するのと同じである。耳栓を持ってくるべきだった。一睡もできずに朝を迎える。

8月26日(水)
 ボロボロの状態で7時に体温を測ったら熱が37.5度まで上がっていた。朝食を取りにロビーに行くと、チョッパー君から「あなたがたを一晩中お守りしていました」と話しかけられてムカッとする。守る気があるんなら車の騒音をなんとかしろ。
 お揃いのピンクのパジャマを着た女性ふたりが小声で話しあっていることに気がつく。いちゃついている男女もいる。どうやら一緒に感染してバラバラの部屋で過ごしている家族のようだ。姉妹と新婚夫婦だろうか。朝食はカツサンド。飲み物は昨日と同じでジュースやヨーグルトといった朝っぽいものはない。
 10時頃、看護師から電話がかかってきたので「窓から何も見えない。夜の騒音で眠れない」と切々と訴えたが、笑って誤魔化される。
 今日は昼間もずっとベッドで寝ていた。ちなみに昼飯はサーモンフライで夜は唐揚げ弁当。野菜と果汁と乳製品をくれ! なおホテルでは宅配を一切受け付けないため、食べ物を外部から入手することは原則不可能である。

8月27日(木)
 相変わらず体はダルいけど、体温が36度台に落ちていて安堵する。このまま平熱を保っていれば月曜日にはホテルを出られる。
 今日の朝食は、赤飯や炊き込みご飯で作ったおむすびセット。チョッパー君に「腹が減っては戦は出来ぬ。好き嫌いなくバランス良く食事をとることが回復の第一歩ですよ!」と諭されたが、炭水化物と揚げ物だけ食べてどうやって回復できるのだろうか。
 テレビで朝の連続テレビ小説『オーエス オーエス』を久しぶりに見る。6月終わりにコロナの影響で収録が中断されたため、現在は再放送中。湊兄ちゃん扮するハリー星野が登場する回だったのでラッキーだった。
 ツイッターによると、主人公のアッコや友だちのユミ、タエコ、ミナコのうち誰かが曲のアイデアを思い浮かべると、フレーム外から「ぼくがアレンジしようか?」と低い声がして、カメラがパンするとベースを抱えたハリー星野がキメ顔で立っているというお約束が人気のようだ。兄ちゃんのキャリアがこれで上向いてくるといいんだけど。
 それにしてもリネン類で交換できるのが枕カバーとバスマットだけというのは辛い。汗で湿った布団カバーとシーツで、最短でもあと4晩眠らなければいけない我が身を呪う。

8月28日(金)
 朝、チョッパー君から「あなた、どこかでお会いしましたよね?」と話しかけられる。ここに泊まったのは初めてなのに、どうやったらお前と知り合いになれるんだよ!
 4日目ともなると、ロビーでの会話に耳を傾ける余裕が生まれる。パジャマ姉妹は「わたしたちどうしてコロナなんかにかかっちゃったのかしら」「わからないのよねー」と無限ループのやりとりを続けている。新婚カップルは、夫が奥さんにうつしてしまったらしく「こんな生活させてごめんね」「いいの、だってあなたも会社と家を行き来していただけなんでしょう」と甘い言葉で囁きあっていた。
 「空津サーガ」の執筆は遅々として進まない。
 夜、澪姉ちゃんから野菜ジュースのペットボトルとカントリーマアムが届いていた。療養者の知り合いからホテルスタッフに手渡しする形式であれば、例外として差し入れを受け付けてもらえるのだ。千駄ヶ谷からここまで自転車で届けに来てくれたんだろうか。家族ってありがたい。おかげでシャケ弁当の塩辛さを中和できた。
 安倍晋三が総理大臣を辞任したことを知る。自分が病人なので、今は病人の悪口は言いたくない。半年くらい病院でじっくり治療すればいい。

8月29日(土)
 昼過ぎにスマホが鳴った。着信ボタンを押すと軽やかな声が聞こえてきた。
「丹念くん、元気? 囲間です」
「そちらこそお体は大丈夫っすか? 本社総務でコロナにかかったのって囲間さんですよね?」
「まあ、池袋であんな目にあったら二人とも感染しておかしくないよね。わたしはちょっと咳をするくらいだけど」
 囲間さんはいつもの調子だった。
「療養先はどこですか? もしかしてプライスホテル?」
 あちこちに強力なコネを持つ彼女は一番いい療養先に泊まっているにちがいない。
「ううん、絶対言っちゃいけないって言われているんだけど、『ロスト・イン・トランスレーション』っていう映画のロケに使われたホテルがあって……」
「それって、もしかしてパークハイアット?」
「わたしだけ特別なんだって。部屋の外には出られないけど夜景は綺麗だし、食べたいものや欲しいものは何でもドアの外まで届けてくれるからまあまあってところかな」
 彼女のコネはぼくの想像を遥かに超えていた。
「でも部屋で身動きできないのは困っちゃいますよね」
「あれっ、丹念くんの部屋にはルームランナーはないの? わたし今朝6キロ走ったよ」
 スーパーセレブへの嫉妬が原動力になったのか、執筆がかなり進んだ。この調子で滞在中に下書きだけでも完成させよう。
 18時に夕食を取りにロビーに行ったら焼き鳥弁当が並んでいた。朝がおこわのおむすびセット、昼間がすき焼き弁当で、夜がこれかよ。クドすぎる! チョッパー君が虚空にむかって語りかける。
「みんな応援してますよ。今はゆっくり休んでください」
 応援する気があるならルームランナーをよこせ! 休ませる気があるなら新しい布団カバーとシーツをよこせ! 腹が立ってきたので、チョッパー君の背後に回り込んで、首の付け根にある隙間から体内にわざとペットボトルの緑茶をこぼしてやった。
 『ブラックパンサー』のチャドウィック・ボーズマンが亡くなった。なんてこった。

8月30日(日)
 「再起動中」と手書きで書かれた紙がチョッパー君の胴体に貼られていた。どうやらぼくは彼を壊してしまったようだ。罪の意識を若干覚えたものの、この日は昼がカツサンド、夜がトンカツ弁当というまさかのカツ2連発。配慮の無さにイライラしているところにイラつく言葉で話しかけられないで本当に良かった。
 夕方、内線電話がかかってきて、明日10時以降にチェックアウト可能と伝えられる。抗体検査は行わずに治療完了とみなすとのこと。患者と会わずに監禁生活を終わらすつもりか。お墨付きなしの解放は人を不安にさせる。

8月31日(月)
 最後の朝食を取りにロビーにいたとき、事件は起こった。食料を求める療養者たちにむかって突如、甲高く金属的な声が響き渡ったのだ。チョッパー君だ。
「新川麻美さん、8月13日に高田馬場の麻雀ハウスOGでお会いしましたね?」
 パジャマ姉妹のうち背が高い方が飛び上がった。背の低い方が問いただす。
「お姉ちゃん、雀荘に通っていたの? そんなところに行ったら感染して当たり前じゃない!」
「ごめんね。それが原因で友美ちゃんにうつしちゃったかと思うと話せなかったのよ」
 しかしチョッパー君は言葉を訂正した。
「麻美さん、ちがいます。友美さんが感染した場所は赤羽のやすらぎ本店ですよ。わたしそちらでお会いしていますから」
 今度は背の高い方が逆襲に転じる。
「やすらぎ本店って立ち飲みで有名なお店じゃない。お酒は止めたって言っていたのに赤羽までこっそり通って飲んでいたわけ?」
「ええ、飲んでたわよ。でも何でチョッパー君が知っているわけ?」
 チョッパー君のお喋りは止まらない。
「わたしは何でも知っているんです。久松健太さん、あなたとは8月14日に六本木のクラブ、ラ・セーヌの受付でお会いしましたよね?」
 新婚夫婦の夫の顔が青ざめる。
「健太、ラ・セーヌって、もしかしてキャバクラ?」
 新婚妻が怒りに震え出した。
「ごめん。申し訳なくて言い出せなかったんだ」
「そんなところでもらったものをわたしにうつすなんてマジで信じられない」
 するとチョッパー君がツッコミを入れた。
「久松愛さんの感染経路は別ですよ。同じ日にご主人が出勤されたあと、歌舞伎町にある『邪衆門』の朝営業に行かれましたよね。感染場所はそちらになります」
 今度は妻の顔が青ざめて夫が怒りに震えだす。
「夜勤明けでもないのにホストクラブの朝営業に行くなんて、頭どうかしてるぞ?」
「なによー、お互いさまでしょ!」
 ふたりは睨み合った。
 ぼくは一触即発の気配が漂うロビーから6階へと逃げ出した。一見ビジネスとして成立していないように思えたチョッパー君がなぜあちこちに置かれているのか? サンドイッチを頬張りながらぼくはある結論にたどり着いた。
 インターネット上における個人の消費行動を掴むことは簡単だ。クレジットカードやブラウザー、SNS等あらゆるツールで追跡可能だから。でもリアル社会での行動は? 街中で人が何に興味を示し、何を買ったかはとても追いきれない。
 チョッパー君は、そうした消費行動を掴むために開発された監視ロボットだったのだ。街のあちこちに置かれた彼らは、ネット上で情報を共有しあうことで個人を特定し、行動を分析していた。通常はこうした事実を外部に漏らさないように設定されているはずだが、ぼくがお茶をこぼしたために設定が初期化されてしまったのだろう。
 スマホのアラームが鳴る。10時まであと15分しかない。慌てて荷物をリュックに放り込んで部屋を出た。
 ロビーでは折り畳みテーブルが左右にバリケード状にうず高く積まれ、片方にパジャマ姉と新婚夫、もう片方にパジャマ妹と新婚妻が陣取っている、頭上ではペットボトルや汚れた枕カバー、足拭きマットが飛び交っていた。
 隅っこに佇むチョッパー君と目があった。
「ごめんな、わざとお茶をこぼして」
 チョッパー君は目をLED照明で輝かせながら返答する。
「いいえ、こんなことはしょっちゅうです。池袋でのあなたの頑張りはわたしも見ていましたよ。囲間雨さまにもよろしくお伝えください」
「ああ、またどこかで会おうぜ」
 ぼくは自動扉から外に出ると、完全武装したスタッフから療養証明書が入った封筒を手渡された。帰りは電車を使ってもいいそうだ。
 ホテルの裏には大きな公園が広がっていて、秋の気配がうっすらと漂う中、マスクをした赤ちゃんたちを乗せた無数のベビーカーを母親たちがゆっくりと押しながら散歩していた。世界は美しい。
 ふとホテルの方角を振り返ると、建物内から爆発音のようなものが聞こえたけど、ぼくは気にせず地下鉄の最寄り駅へと歩き出した。


『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク


POPULAR