毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の人気シリーズ「インナー・シティ・ブルース」のシーズン3がスタート。新たな幕開けは、銀座を本拠地に繰り広げられる探偵物語? ディストピア感が増す東京を舞台に繰り広げられる、変種のハードボイルド小説をご堪能ください!
【あらすじ】主人公・町尾回郎(まちお・まわろう)は29歳のフリーター。銀座の外れにあるバー「アルゴンキン」での過去のツケ返済のため、自分と同じ立場の奴らからツケを回収する仕事を引き受けている。今回の標的は弱冠27歳のアパレルショップ経営者、円山和馬(まるやま・かずま)。円山が経営する会社の代表電話に連絡してから、たったの3日で社長本人と会えることになり、簡単すぎる展開にマワローが戸惑っていると……。
明治神宮前駅で千代田線を降りて地上に出た途端、突風が俺の頬を平手打ちした。昼下がりなのに、吐く息が白くなるほど寒い。でも街を行き交う人々の足取りは軽快そのものだ。クリスマスを来週に控えているからだろう。
ラフォーレ原宿の店頭では、サンタとトナカイがグラスで乾杯しているディスプレイが飾られ、備えつけのスピーカーからはマライア・キャリーの歌う「恋人たちのクリスマス」が流れていた。クレジット請求額の最高記録を目指すショッピング客が、東急プラザの巨大なエスカレーターに乗って、次々と建物の中へと消えていく。
甘ったるい匂いをあたりに撒き散らすクレープ屋、意識高い系で賑わうビーガンカフェ、そしてメーカーロゴがスプレーアートでかき消された自動販売機。そんな原宿らしさに溢れた明治通りを歩いて俺は目的地を目指した。
目的地は、竹下通りを通り過ぎてすぐのところにあった。1階のテナントとして24時間営業のスポーツジムが入っているガラス張りの高層ビルだ。エレベーターに乗りこむと、俺は3日前に「アルゴンキン」で交わした囲間楽(かこいま・らく)との会話を頭の中で反芻した。
「マワロー、WFFMって知ってる?」
「Wind,Forest,Fire,Mountainのことですか? ルミネとかに入っているオシャレな服屋ですよね」
「当たり。セレクト・ショップ四天王のひとつ。売上500億円、従業員1200人だからなかなかの大企業だね。そこの社長、円山和馬(まるやま・かずま)のツケを回収してほしいんだよね」
「いくら溜まっているんですか」
「972万5800円」
これにはさすがに驚いた。
「ボッタクリ・バーのアルゴンキンとはいえ、ハンパない金額ですね」
楽さんは笑いながらも俺をたしなめる。
「冗談でもそんなこと言わないでよね」
「いつ頃のツケなんですか?」
「2020年の年明け頃から緊急事態宣言が始まる前まで、毎日のように来ていたみたい。金額が高いのは、知り合ったばかりの常連客の分もおごっていたから。不思議なのは、彼の齢。アルゴンキンの常連客って皆それなりの歳じゃない。でも円山社長ってまだ27歳なんだよね」
俺もその年頃にはもうアルゴンキンに通っていたけど、黙って飲んでいただけだ。
「よく話が合いますね」
「創業社長だった父親が亡くなって、跡を継いだばかりらしいから、父親の人脈を再構築しようとしていたのかも。ドロシー・ママのメモにはこう書いてあった。『自分の親の年代相手に熱心に企業ヴィジョンについて語っていた様子。将来性あり』だって」
楽さんが送ってくれた写真をスマホで確認する。それはドロシー・ママが店内で撮影した常連客の集合写真で、日本経済新聞や「ワールドビジネスサテライト」で見かけたことがある大物たちが顔を揃えて映っている。円山和馬は一番右側の後方に立って、少しこわばった表情を浮かべていた。冷徹な眼差しと意志の強そうながっしりした顎が特徴的な男だ。
俺は21階でエレベーターを降りた。ここから最上階まで3フロアーぶち抜きで「WFFM」本社が入っているのだ。受付の女性に「アルゴンキン」の者だと告げると、ラウンジ奥にある専用エレベーターで最上階まで上がるようにと案内された。
俺はWFFMの代表電話に連絡してから、たったの3日で社長本人と会えることに内心戸惑っていた。大企業の役員の場合、飲み代の回収だと告げると色々な理由をつけられてスケジュールは後回しにされ、やっと面会できたと思ったら、相手は総務課長だったなんてケースが日常茶飯事だからだ。
エレベーターの扉が開くと、目の前が真っ白になった。床から天井まで広がる大きなガラス窓から、陽光が燦々と注がれていたのだ。吸血鬼なら灰になるほどの明るさだ。
フロアー秘書から、ソファーで待つように促されたので、腰を下ろして窓から東郷神社の鬱蒼とした樹木やその向こうにそびえるドコモタワーを眺めながら、面会相手を待った。グレンチェックのスリーピースのスーツに身を包んだ円山和馬が現れたのは、それから10分ほど経過してからだった。写真の印象と比べると、印象が随分と柔らかい。「アルゴンキン・マネージャー 町尾回郎(まちお・まわろう)」と印刷された名刺を渡すと、円山はそれを眺めながら言った。
「アルゴンキンのマネージャーさんっていうから、もっとお年の方かと思っていました。お若いんでビックリしましたよ」
「それを言うなら社長の方がお若くて、取引先に驚かれるんじゃないでしょうか」
「こういう仕事をやっていると、若さなんてものはマイナスでしかないですよ。舐められて困ります」
円山和馬は照れ笑いと苦笑いが入り混じった表情を浮かべながら、話題の核心に入ってきた。
「で、いくらツケが溜まっているんですか?」
「972万5800円です」
「結構な額だなあ。いつ頃オヤジが飲んだ分なんですか?」
言っていることが妙だ。
「いいえ、社長ご本人が2020年1月から3月にかけて飲んだ分です」
訂正すると、円山和馬は不思議そうな顔をする。
「何かの間違いじゃないかな。オヤジやその仲間があの店の常連だったことは知っていますけど、私はアルゴンキンどころか銀座で飲んだことすら殆どないんで。飲むのは専ら青山か麻布です」
そのパターンか。ドロシー・ママが入院中なのをいいことにしらばっくれる客がたまにいるのだ。
「でもこれを見てください。確かに……」
そう言いながらスマホの写真を円山和馬に見せようとした瞬間、俺は気がついた。確かに目元は似ているけれど、目の前の男の顎はもっと細くて、がっしりなんかしていない。アルゴンキンで972万5800円分を飲んだ男は、円山和馬ではない。これは面倒臭いことになった。
「では、この男が社長の名を騙っていたことになりますね。彼をご存知ですか?」
俺はスマホの画面を円山和馬に見せた。彼は画面を凝視する一方で何かに想いを巡らしているようだった。
「正直、記憶にないですね。でもうちのスタッフに、社内の人間かどうか調べさせますよ」
「ありがとうございます」
礼を言いながら俺は落胆した。取立て手数料はツケの金額の15%だから、972万5800円を回収すれば約146万円が俺の懐に入ることになる。それは俺がアルゴンキンに溜め込んだツケの3分の1近い額だった。
しかしその直後、円山和馬の口から信じられない言葉が発せられた。
「でもウチの社員の仕業だとしたら結局払わなきゃいけないし、町尾さんもお困りだろうからツケはお支払いしますよ。ウチは12月決算だから身綺麗にしないといけないんで」
随分と気前がいい。
「ありがとうございます。助かります」
「但し……ひとつお願いがあるんです」
やっぱり、ただでは済まないと思った。
「お願いとは、何でしょうか?」
「ある人物の家を訪問してほしいんです」
「どんな方ですか?」
まさか反社会勢力じゃないだろうな。
「いま資料を持ってこさせます」
円山和馬が社内電話で指示をすると、5分ほどして先ほどのフロア秘書がプリントアウトした紙を持ってきた。今川瑠璃という名と共に、若い女の入館ID用に撮影されたらしき写真が添えられている。目尻があがった大きな瞳と薄い唇。そして細くて長い首。反社会勢力のメンバーではなさそうなのでホッとした。
「わたしのアシスタントをやってくれていた京南大生のインターンなんですが、連絡が取れなくなってしまって」
「行方不明ですか」
「いや、3ヶ月ほど前に突然『辞めます』というメールが人事に送られてきて、それっきりなんです」
「今どきの若い子の辞め方なんてそんなもんでしょう」
「電話もLINEも通じなくなった。連絡するように封書を送っても返事がない」
俺は円山社長に言った。
「実はちょっと前にも同じようなケースに出くわしたんですよ。この女性はあなたを避けているんじゃないですか。失礼ですが、何か不適切なことをやらかしていませんか?」
円山和馬は顔色を変えた。
「断じてありません。今川さんは仕事熱心で、アパレル業界の専門知識もかなりのものだった。大学を卒業したら正社員として迎えようと考えていたんです」
「逸材だったわけですね。それでは何故ご自分で訪問しないんですか」
「無理に決まっている。パワハラ、セクハラ、ストーキング。企業のトップが女子大生を付け回したら、世間からはこう言われるでしょう」
円山和馬は明らかに今川瑠璃に特別な好意を抱いている。しかしその想いを自分でも持て余しているように見えた。
「私があなたの代わりに自宅に行って『WFFMに入社して欲しい。無理なら理由を聞かせて欲しい』と言えばいいわけですね」
「その通りです」
「なぜ初対面、しかもバーのマネージャーの私なんかに頼むんですか? もっと信頼できる部下の方に頼めばいいでしょう」
円山和馬は声のトーンを落とした。
「このビルには、三流大学を出たあとにロンドンでフラフラ遊んでいただけなのに、父親のあとを継いで社長になった男を嫌っている人間がうじゃうじゃいるんです。この件が漏れて週刊誌にリークされるかもしれない。今の時期にそれだけは避けたいんです。それに町尾さんはなかなかの見識をお持ちのようだ」
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだ。
「私が、ですか?」
「スーツを見れば分かりますよ」
「これですか? 申し訳ないですけどWFFMのスーツではないですよ。ロードサイドの量販店で作ったものです」
「でもその店の中では最高級品ではなかったですか?」
「確かにそんな記憶はあります」
先輩の久世野照生(くせの・てるお)に強く勧められたんだっけ。
「生地も仕立てもなかなかのものです。ハイブランドの安い商品より量販店の最高級品の方がいいに決まっている。スーツというのは部品が多いものですから、安く売ろうとしたらパーツの数を減らして原価を落としていくしかない。でもそこを妥協するとロクなものは作れないんですよ」
円山和馬が、服作りが好きでたまらないことだけはわかった。
「わかりました。お引き受けしましょう」
「よろしくお願いします、町尾さん。疾(はや)きこと風の如しでお願いします」
「はっ?」
「Winds,Wood,Fire,Mountain、風林火山ですよ。オヤジはこの言葉を経営方針にしていて、それをそのまま社名にしたというわけです」
俺は明治神宮前駅に戻ると、綾瀬行きの千代田線に乗りこみ、赤坂で下車した。空気はさらに冷え込んできている。
赤坂はアルゴンキンの女主人ドロシー・ママが若いころに働いていた伝説のナイトクラブ、ニューラテン・クオーターがあった街だ。なぜ日本一の繁華街だった銀座ではなく赤坂にあったのか? 理由はアメリカ大使館がすぐそばにあったからだ。大使館員や米国企業のエクゼクティヴを顧客として想定していなかったら、一線級のアメリカ人エンタテイナーをわざわざ招聘しようなんてアイデアは考えつかなかっただろう。
赤坂に限らず、千代田線沿線はアメリカと深い関わりを持っている。俺は広告代理店時代にアメリカ人の社会学教授相手にプライベート・ツアーを行ったことがあった。題して「千代田線で巡る東京のアメリカ」。
スタート地点はアメリカ大使館。その後、乃木坂にある在日米軍のヘッドクオーター、赤坂プレスセンターをチェックしたあと、明治神宮前駅と代々木公園駅の間に広がる代々木公園を散歩させる。ここは、もともと在日米軍の家族が住んでいたワシントンハイツの跡地だったからだ。そして午後は、代々木上原から直通乗り入れしている小田急線で神奈川方面へと向かい、米陸軍のキャンプ座間や米海軍の厚木の航空基地周辺を散策するのだ。
こうしたアメリカとの関わりを千代田線が持っているからだろうか。東京メトロの全面協力で製作された変身ヒーロー物『地下鉄戦隊メトロンジャー』で千代田グリーンを演じていたのは、ハーフのイケメン俳優だった。
TBS前の通りや一ツ木通りの印象から、焼肉店が多めの飲み屋街と思われがちな赤坂だけど、通りから一本奥に入ると閑静な屋敷街が広がっている。特に勝海舟が暮らしていた氷川坂付近は、この辺りでは希少な江戸情緒が残るエリアだ。
その氷川坂に面したマンションが今川瑠璃の住まいだった。エントランスホールに足を踏み入れる。壁は地味なアースカラーだが、よく見ると天然石が貼られていた。エントランスホールは薄暗かったけど、それは間接照明によって意図的に照度が抑えられていたからだ。こうした本質的な高級感は一代でのしあがった人間にはウケが悪い。
港区に住むスーパーリッチというと、全員が六本木ヒルズに住んでいるように思われがちだけど、先祖代々富裕層に属している人々は寧ろ「麻布・青山・赤坂」の3A地区の方を好む。今川家はこうした階層に属しており、彼女は両親と一緒に暮らしているのだろう。
プリントアウトされた紙に書かれた部屋番号を、インターホンで呼び出してみる。
「はい、今川です」
「今川瑠璃さんはご在宅ですか?」
「わたしですけど」
運良く、在宅だったようだ。
「わたくし町尾廻郎と言いまして、WFFMの採用担当の者なのですが」
「WFFM?」
何だか雰囲気がおかしい。
「あなたがインターンで働いていた会社ですよ」
「何かの間違いじゃないではないでしょうか?」
「でも今川さんが働いていたと、社長本人が主張されているんです」
「ちょっと待ってくださいね。今そちらに行きますから」
しばらくすると若い女がロビーに現れ、オートロックの中へと入れてくれた。バーガンディ色のクルーネックセーターにグレーのロングラップスカートという出立ち。ぱっと見はさりげないけど、トータル金額は恐ろしく高そうだ。
女の顔の下半分はマスクに覆われていたけど、俺は目元だけ見てわかった。目尻が下がっている。WFFMでインターンとして働いていた女は、今川瑠璃ではない。これは面倒臭いことになった。
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PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。
https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000
『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters
2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税
著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク