毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の人気シリーズ「インナー・シティ・ブルース」のシーズン3がスタート。新たな幕開けは、銀座を本拠地に繰り広げられる探偵物語? ディストピア感が増す東京を舞台に繰り広げられる、変種のハードボイルド小説をご堪能ください!
【あらすじ】主人公・町尾回郎(まちお・まわろう)はアラサーのフリーター。銀座の外れにあるバー「アルゴンキン」での過去のツケ返済のため、自分と同じ立場の奴らからツケを回収する仕事を引き受けている。今回の標的は、常連から一目置かれていたジャズ・コクレターの向原功。向原は既に亡くなっていたので、回郎は彼の妻、節子を訪ねる。向原は生前、ブルーノートの1500番台と4000番台をオリジナル盤でぜんぶ揃えており、それが残された家族にとってある程度の遺産となるはずだったが……
都営三田線の座席に座った俺は、スマホを取り出して、PDFファイルを見直した。
「Bluenote」「New Jersey」「1553」「1592」
こっちの謎解きの方も、楽さんの執事にお願いしておけばよかったと後悔する。でも今更それは難しい。彼女はすでに熟睡しているはずだから。
全神経を集中させて、ナットさんとの会話を思い出してみる。言葉の断片が浮かぶたびに、スマホでネットサーチを繰り返した。そうこうしているうちに電車は、三田や日比谷を通過していく。真相を掴んだ気持ちになったのは、大手町を通り過ぎたあたりだった。
電車が神保町に到着した。バブル時代の地上げにも耐え抜いたタフな街が、コロナではかなりのダメージを負ったようだ。地上出口の脇にある映画館の岩波ホールは、観客減少が原因で7月中の閉館が決まっていた。
白山通りを南下すると、最初の信号を右折して「さくら通り」と書かれたピンク色の門柱が左右にそびえた通りへと入った。白山通りを挟んで反対側の「すずらん通り」は飲食ショップと古書ショップが隣り合う趣ある通りだが、こちらは小規模なオフィスビルが並んでいて、人通りも少ない。
目指すミヤモトレコードは、さくら通りを入ってすぐ、餃子屋と和紙販売店に挟まれた小さなビルの一階にあった。入口のガラス扉には「42年間ありがとうございました」と張り紙がされていたが、ショップ内の照明はついている。まだ営業中のようだ。
中に入ると、壁に備え付けられたスピーカーからピアノトリオをバックにした女性ヴォーカルが小さな音で流れていた。俺のほかに客は誰もいない。レコード棚には空白が目立つ。「売り尽くし 全品30%引き」と壁の張り紙に書かれていたので、目ぼしい商品は売れてしまったのだろう。
カウンターの向こうで、メガネをかけたショートカットの可愛らしい女性がスマホをいじっていた。ぱっと見、三十代に見えるけど、ひょっとすると氷川久美子とさほど歳が変わらない可能性もある。
「あのー、店長さんはいますか」
「わたしですけど」
しまった。得意ジャンルがジャズで、インテリアが特別オシャレというわけでもないレコードショップだったので、店長はてっきり高齢の男だと思いこんでいた。
「失礼しました。わたくし、銀座『アルゴンキン』のマネージャー、町尾回郎と申します」
名刺を渡すと、女性の方も自分の名刺を渡し返してきた。表面に凹凸のあるマーブルホワイトの名刺には「大山マリ 編集・執筆」という肩書きとメールアドレスだけが活版印刷されている。
「どんな御用ですか?」
俺は答えた。
「氷川久美子さんからの紹介で来ました」
「氷川さん?」
「高島平団地のジャズレコード・コレクター、向原功さんの娘さんです」
大山マリが表情を曇らせたのを、俺は見逃さなかった。
「今日来たのは、確かめたいことがあったからなんです」
「どんなことでしょう」
「向原さんのアナログ・レコード・コレクションの中にはブルーノートの1500番台と4000番台がオリジナル盤でコンプリートされていたと聞きました。買取額は100万円。結構な大金です。でも相場は2000万円以上のようですね」
「レコードの査定については個別のコンディションも考慮するので、相場に対して安いと言われても……」
声が少し上ずっている。
「あなたの査定が低かった理由を氷川さんから聞きました。コンディションの良し悪しの話はされなかったはずです。ブルーノートの1500番台が99枚しか揃っていなくて、しかもうち1枚が日本盤だったからと説明されたようですね」
大山マリは黙っている。
「あなたを責める気はありません。売買はすでに成立していますし、わたしがどうこう言う権利もないですから。あくまで個人的な興味から知りたいだけなんです。これからわたしの推理をお話ししますので、感想をおっしゃっていただければ結構です」
俺は自分の推理を喋ってみせた。
「あなたが説明した理由では、買取査定に一切影響しません。なぜなら理由自体が存在しないからです。ブルーノート1500番台のうち、1553番は欠番です。1500番台はもともと99枚しか存在しない。いや、正確に言うと1592番もかつては欠番でした。しかし日本で人気があったピアニスト、ソニー・クラークの録音だったことが判明したため、1976年に東芝EMIが『ソニー・クラーク・クインテッツ』として世界で初めてリリースしたのです。つまり1592番のオリジナルは日本盤だといえます。向原功さんの1500番台はオリジナル盤でコンプリートされていたんですよ」
視線を逸らす大山マリに向かって俺は種明かしを続けた。
「大山さん、知っていてわざと嘘を言われましたね。高島平に出張査定に行ったあなたは、向原さんの奥さんも久美子さんもジャズに詳しくなさそうなことに目をつけた。そこで念のため、ジャズマニアならすぐ嘘と分かる理由を話して、おふたりをテストしてみたのです。彼女たちは全く疑わなかったので、あなたは2000万円以上のコレクションを僅か100万円で入手しました。そしてレコードを売り捌いて大金を得たので、事実を隠蔽するためにミヤモトレコードを閉じる決断をした。どうしょう? この推論をどう思われますか」
大山マリはしばらく沈黙を続けたあと、ようやく口を開いた。
「閉店理由に説得力が欠けていると思う」
どういうことだ?
「もともとここは、叔父の店だったんです。でも1年前に彼はコロナで亡くなってしまって。独身で、子どももいない人だったけど、遺言状には遺産執行者としてわたしの名前が書かれていた。ふたりとも音楽好きで、わたしが東京に住んでいた頃は親娘のように仲良しだったから指名したのかもしれません。わたしは地元の長野に帰っていたんですけど、そんなわけで唯一の遺産であるこのショップを処分するために一時上京してきたんです」
大山マリの名刺に、ミヤモトレコードの名が書かれていないのは、そういう理由だったのか。
「もともと閉店するつもりだったんですね」
「最初の頃はこのショップを継ごうかなと思っていたんです。レコードは大好きだし、子育てもひと段落していたしね。でもレコードやCDの売り上げでは水道光熱費すら払えないことがわかった」
「コロナのせいですか」
「いいえ、ネットのせいです」
「音楽配信のことですか?」
「ちがいます。わたしたちはもともと配信で満足している人なんて相手にしていないので。問題はネットそのもの。現在の中古レコードの価格相場ってすべてネットで共有されているんです。わたしたちはショップにレコードが持ち込まれると、コンディションや音楽性の高さ、レア度で査定して買い入れて、ショップの利益が見込めるギリギリの販売価格を設定して販売する。でもその情報がネットで流れるたび、素人がそれよりほんの少し低い価格でメルカリやヤフオクで売り出してしまう。当然そっちの方が売れるでしょう? 今や中古レコードショップは、音楽が好きかどうかもわからない赤の他人から無料鑑定士として利用されているだけなんです」
そんな状況だったのか。
「これを読んでください」
大山マリがカウンター後ろの本棚から一冊を取り出して手渡してきた。「レコードマップ97」と書いてある。
「これは25年前のレコードショップのガイドブックなんですけど、お茶の水・神保町と書かれたページを見て。当時は20以上の中古レコードショップがあった。でも今では半分も残っていない」
昔の神保町は古書と同時に中古レコードの街でもあったのか。それもひとつの文化だったのだろう。
「でも老舗には必ず馴染みのお得意様がいますよね」
俺の問いに対して大山マリは冷ややかに答えた。
「お得意様は年々歳をとってショップに来なくなっていく。減っていく一方」
銀座のバーと同じか。
「皮肉な話だけど、中古レコードショップは、お得意様が死んでいくことで何とか延命しているところもあるんです」
「どういうことですか?」
「お得意様が亡くなると、コレクションの価値がわからない遺族がすぐに処分したいと連絡してくるから。この場合、ネット上の価格相場より遥かに安く買い取れるから、素人とも価格勝負ができる」
「向原さんのケースもそうだったんですね」
「そんなことする気はなかったんです。でもあそこの娘さんが領収書を分けてくれ、すぐ支払ってくれってうるさくて。それにうちみたいなショップに2000万円の買取資金があるわけないでしょう。だからついつい今お支払いできるのは100万円が限界ですって言ったら、あの人は提案に飛びついてきた。正直いうとわたしの方が驚いたわ」
氷川久美子は、旦那に内緒で投資か何かで損をしていて、バレる前に穴埋めする必要があったのかもしれない。
「あなたは偶然大金を得たわけですね」
「大金なんかありません。閉店資金に必要な分は売らせてもらったけど。あなたも客商売をやっているようだからご存じでしょうけど、テナントを原状回復してオーナーに返すのって、ショップを続けることよりも余程お金がかかるんです」
「残りのレコードはどうされたんですか」
「その『レコードマップ97』には、全国の中古レコードショップが載っているでしょう? その中から、ジャズを愛していて、今もリアル店舗を続けているショップを選んで、十枚ずつくらい宅急便で送りつけました。これでどのお店もしばらくは営業を続けられるはず」
拍子抜けした。ミヤモトレコードに行くまでは、店長こそが今回の事件を影から操っていた黒幕なのだと思いこんでいた。たしかに大山マリだって100%善人というわけではない。でも彼女は大金を生み出すコレクションの大半を懐にしまわずに、中古レコードショップ文化を守るために使った。そんな人をネチネチ責め立てても意味がない。
「わかりました。お話ありがとうございました」
「待ってください」
俺が立ち去ろうとすると、大山マリはカウンターの下から一枚のアナログレコードを取り出して手渡した。
「これだけ自分で聴くために取っておいたんだけど、あなたにあげます。ほかのショップで買い取ってもらって、お金は向原さんの奥様に渡して」
受け取ったレコードの裏ジャケットには曲名がクレジットされている。A面一曲目は「Autumn Leaves」。「枯葉」のことだ。俺が「BASIE」で聴いた「枯葉」はこのアルバムの収録曲だったんだ。ジャケットを裏返して、表面を見た。黒字に白いゴシック体で「SOMETHIN’ ELSE」と書かれている。「別の何か」という意味か。待てよ、ひょっとして……。
「いいえ、結構です」
よせばいいのに、俺は大山マリの厚意を断ってしまった。
「その節は本当にありがとうございました」
「いいえ、向原さんこそ大事に至らず本当によかったです」
一ヶ月後、俺は高島平団地の向原邸を再訪していた。向原節子は幸いにもてんかんの薬を変えると容態が好転し、十日ほどで広尾病院を退院できたという。
「また倒れちゃうと申し訳ないから、今お支払いしますわ」
彼女は冗談を言いながら封筒を手渡してきた。中を開いて確認すると、15万円6200円ちょうどが入っていた。
「ありがとうございます」
ようやくミッション完了だ。いや、まだひとつ残っている。俺は話を切り出した。
「奥様が最初に倒れたのって、2017年ですよね」
「ええ。そうですけど」
「その前年の2016年に、向原功さんは生涯唯一の海外旅行でニューヨークに行かれたと伺いました。もっとも久美子さんによると、自由の女神もエンパイアステートビルにも登らずに、川向こうの町をずっと歩き回っていたようですが」
「はい。あの人は観光地よりも普通の街の方が面白くなったので、散歩していたと申していました」
「その話が妙に気になったんですよ。最初はイーストリヴァーを挟んだブルックリンを歩かれていたのかなと思いました。あそこは街歩きに最適ですから。でもふと、その町がハドソン河の向こうにあるニュージャージーだったとしたら、と思ったんです」
「ニュージャージー?」
「功さんが愛したブルーノートレコードの作品がレコーディングされていた場所です。ニューヨーク産ジャズの代表的レーベルと言われながら、全盛期のブルーノートの音楽はニュージャージーで作られていた。ニュージャージーのイングルウッドクリフスという町に録音スタジオを構えていたルディ・ヴァン・ゲルダーという腕利きエンジニアがレコーディングを一手に引き受けていたからです。その彼が亡くなったのが2016年でした。もしかすると功さんはそれを知って、最初からニュージャージーに行く気だったのではと思ったのです」
「どうして。そのルディさんという人にはもう会えないわけでしょう?」
「功さんの目的は彼に会うことではなく、彼の遺品だった。功さんはルディ・ヴァン・ゲルダーの遺族が、遺品の価値をわかっていない場合、バザーに放出するにちがいないと考えた。そしてイングルウッドクリフス周辺の教会バザーを回って、生涯探し求めていたものを発見したのです。功さんはその品物の価値をオフィシャルに証明したいと考えていたはずですが、奥様が倒れられたために先延ばしにした。そしてそのまま亡くなってしまわれた」
向原節子はぽかんとしている。
「その反応ですと、まだコレクションルームの金庫を開けていないようですね」
「来週に業者さんが来る予定ですけど」
「わたしの推理が正しかったら、金庫は今ここで開けられるはずです。上司に相談したところ、時間はかかるかもしれないけど、オフィシャルにその価値を証明して、奥様に最大限の利益を得られるようにお手伝いたいとの約束も得られました。おそらく豪遊しながら暮らせる金額になるはずです」
「おっしゃっていることがよくわからないけど、今ここで開けられるのはわかりました。どうすればいいの?」
「金庫は壊れていません。ニュージャージーから帰ってきたあと、功さんは暗証番号を1592以上のラッキーナンバーに変更したんです」
「あの人にとって、そんな数字があるのかしら」
不審がる向原節子に、俺はその数字を告げた。
「1553と入力していただけませんか」
向原節子がテンキーを押す。すると金庫の扉は鈍い音を立てながら開いた。
「あら」
「おそれいりますが中のものをすべて見せていただけますか?」
向原節子が中のものを次々と俺に手渡していく。パスポート。マンションの権利証。そして最後に俺が手にしたものは、三十センチ四方の薄い板状の物体だった。表面が白い紙で覆われていて、中央部に丸い穴が開けられている。
「ビンゴ」
俺はつい口走ってしまった。それはLPレコードで、「Test Press」と刻印された白いレーベル面には、手書きでこう記されていた。
「BLUENOTE 1553」。
PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。
https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000
『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters
2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税
著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク