インナー・シティー・ブルース シーズン3
長谷川町蔵 著
第十一話:リキの電話番号 後編(日比谷線)

illustration_yuriko oyama

インナー・シティー・ブルース シーズン3
長谷川町蔵 著
第十一話:リキの電話番号 後編(日比谷線)

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毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の人気シリーズ「インナー・シティ・ブルース」のシーズン3がスタート。新たな幕開けは、銀座を本拠地に繰り広げられる探偵物語? ディストピア感が増す東京を舞台に繰り広げられる、変種のハードボイルド小説をご堪能ください!

【あらすじ】主人公・町尾回郎(まちお・まわろう)はアラサーのフリーター。銀座の外れにあるバー「アルゴンキン」での過去のツケ返済のため、自分と同じ立場の奴らからツケを回収する仕事を引き受けている。今回の標的は、秋葉原の執事喫茶「ダウントン・アキバ」の経営者、美倉力。だが最近突然閉店し、夜逃げ同然に姿を消していた。彼を追って舞台は六本木から人形町へ。ようやく美倉力の自宅を見つけるも、あいにく不在でアパートの廊下で彼を待つことに。しかしマワローは美倉の顔を知らない。そこへふと現れたメガネ&口ヒゲのロン毛男に声をかけてみると……

 人形町を含む日本橋エリアは、六本木から直線距離でわずか5キロほどの場所にある。でも街としての性格は正反対だ。アメリカの存在を至るところに感じる六本木とは対照的に、ここには江戸時代の残り香が漂っている。
 町名にもそれが表れている。箪笥町(たんすまち)や霊南坂町(れいなんざかまち)といった江戸情緒あふれる名を、六本木一丁目から七丁目という無味乾燥な名のもと統合してしまった六本木エリアとは違って、日本橋エリアは蠣殻町(かきがらちょう)、小網町(こあみちょう)、兜町(かぶとちょう)といった由緒ある名を維持することによって、都市の記憶を街に留めているのだ。
 人形町の呼び名にも言われがある。江戸時代初期は唯一の歓楽街だったこの街には、かつて人形浄瑠璃の芝居小屋があった。現在は鉄筋コンクリートのオフィスビルばかりになってしまっているが、注意深く街を歩けば、個人経営の老舗料亭が驚くほど多いことに気づくはずだ。
町のランドマーク「江戸火消しからくり櫓」からすぐそばの「甘酒横丁」は、そうした老舗が特に多い通りだ。人形焼の板倉屋やたい焼きの柳屋が有名だが、穴場的な名店がほかに幾つもある。前職の旅行代理店時代は、予算は少ないけど美味しい日本料理を食べたいという外国人観光客をここによく案内したものだ。
 セヴェリ春香がこっそり教えてくれた美倉力の自宅は、そんな名店のひとつである焼き鳥屋の隣に立つ細長いアパートだった。一階集合玄関のポストを確認してみる。
「202号室 美倉」
 よかった。まだここに住んでいたか。外階段をあがって玄関ブザーを押してみる。何の反応もない。留守なのだろうか。しばらく待ってみよう。スマホを確認すると現在の気温は天気予報通り37度まであがっていた。額に汗を感じながら、俺はアパートの廊下で変化が起きるのをひたすら待ち続けた。
 俺は、美倉力がどんな顔かたちをしているのか知らない。囲間楽から提供された資料に顔写真のたぐいは一切なかったからだ。念のため、さっき撮影したシティさんのチェキの画像を眺めてみる。映っているのはシティさんと、行方不明の店のエースである見城または円城。そしてほかの執事たち。でもオーナーが自ら「ダウントン・アキバ」で接客するわけがない。
 そう思った俺がスマホをポケットにしまおうとした時、誰かが階段を登ってくる音がした。男と目があった。チェキに写っていた男だ。シティさんを挟んで見城の反対側に少し離れて立ち、手を体の前に交差していた存在感が薄い中年男。整髪料でかためられていた髪はロン毛になっていて、Tシャツに短パンのラフなスタイルだったが、メガネと口ヒゲは写真と同じだった。 
「美倉力さんですか?」
 俺がそう呼びかけた途端、中年男は背を向けると、階段を駆け下りはじめた。逃げるつもりだ。
「待ってください」
 もっともそう言われて応じる相手ではない。仕方なく俺も階段を駆け降りる。一階に降りて周囲を見回すと、走り去っていく美倉力の姿が遠くに見えた。なかなか足が速い。俺も追いかけはじめたが、スピードがなかなか出ない。スーツと重い革靴のせいだ。訪問先の心証を良くするために、仕事のときはいつもこの格好だったけど、今日ほどそれを恨んだ日はなかった。
 美倉力と俺は、真夏の水天宮通りを全力疾走した。引き離されまいとしながら、俺はふと、彼はこれからどうするつもりだろうと思った。俺が誰かから追われる身だとしたら、鉄道に乗ってしばらく行方をくらますだろう。このまままっすぐ走っていけば、人形町の隣駅にあたる日本橋小伝馬町駅にたどり着く。日比谷線で何処かに逃げるつもりだろうか。
 いや、それはありえない。美倉力は、俺のことをネペンタ不動産の回し者と思いこんでいる。だとしたら、ネペンタが本社を構える六本木を走る日比谷線に乗るのは心理的な抵抗を覚えるはずだ。もう少し遠くにある他の駅だろうか。だとしたら選択肢が多すぎる。かつて江戸の中心地だっただけあって、日本橋エリアには徒歩圏で行ける駅が無数にある。でもこのペースで走っていたら、そろそろ体に限界が近づいているはず……もしかして。
「いてっ!」
 俺は、美倉力がわかるようにわざと声を立てて派手に転んでみせた。俺をちらっと見返した彼は、2ブロックほど引き離すと「堀留町」の交差点を右に曲がっていった。予想通りだ。美倉力の姿が完全に消えるのを確認すると、俺は立ち上がって、ひとつ手前の交差点を右に入ると死に物狂いで走った。今ごろ奴は安心して、走るペースを緩めているはず。目的地に先回りしてやる。
 美倉力が向かおうとした先は、三つの名を持つひとつの駅だった。名目上は、総武快速線の馬喰町、都営新宿線の馬喰横山、そして都営浅草線の東日本橋という三つの異なった駅でありながら、実際は短い地下道でひとつに結ばれている、東京でもレアな駅だ。
 東京暮らしが長い人間でも、乗り換えを使いこなすのは至難の技と言われるこの駅に逃げ込まれたら最後、どの鉄道に乗るつもりか予想するのはまず不可能だ。
 疲れと暑さで眩暈がしてくる。皮膚の穴という穴から汗が噴き出すのを感じながら、地下道の入り口になんとか辿り着くと、俺は暗がりに潜んだ。
 耳を澄ますと、息を荒く吐く音が近づいてくる。やがてメガネ&口ヒゲのロン毛男がよろよろと階段を降りてくるのが見えた。
「美倉力さんですよね?」
 俺が再び声をかけると、男は慌てて階段を戻り始めたが、今度は俺の動きの方が早かった。奴のふくらはぎに、俺の重い革靴による蹴りが命中する。無駄に炎天下で全力疾走させられたんだ。このくらいやってもバチは当たらないだろう。美倉力は階段から転がり落ちた。
 痛みで声も上げられずに倒れ込む彼を、俺は抱き起こすとみたび声をかけた。
「アルゴンキンの町尾といいます。ビールでも飲みながら話しませんか?」

 俺たちは、駅前にあった「NIHONBASHI BREWERY」に入ると、クラフトビールを注文した。
「なんだ、ネペンタ不動産の人間じゃないなら、まずそう言ってくれよ」
 何も聞かずにいきなり逃げたくせに、美倉力は調子がいいことを言う。
「アルゴンキンか。懐かしいなあ。ドロシーママは元気?」
「ママはいま病気なんです」
 俺はアルゴンキンの現状を説明した。店はコロナで休業状態なこと。重い病気で入院したオーナー、ドロシーママの治療費を支払うために、店を預かった囲間楽がツケの回収に動いていること。そして俺がその実働部隊であること。
「そうなんだ。で、俺のツケはいくらなの?」
「256万3280円です」
 俺の答えに美倉力が絶句する。無理もない。しかし彼は長い沈黙のあと、運ばれてきたビールジョッキを飲みほすと、力強く答えてくれた。
「今は仕事をしていないし、金の当てはないけど、いつか必ず返すよ。ママには色んなコネクションを紹介してもらった恩義があるしな。ネペンタとは大違いだ」
「美倉さん、よほどネペンタと揉めたようですね。ダウントン・アキバに何があったんですか」
 俺の問いに彼が答える。
「町尾さん、知っているかな? 『執事、軽井沢の休日』っていう動画シリーズ」
「知っています。実際は北軽井沢で撮影していたらしいですね」
「ハハ、バレたか。でも個人的にはあそこに別荘を持っていた吉田健一へのオマージュのつもりだったんだけどな。それはともかく、あれが命取りになった」
「でもネットでバズったと聞きました。あれは成功だったはずなんじゃ?」
「確かに企業案件が次々入ってきたよ」
 タイアップ広告のことか。YouTubeやTikTokで活躍するインフルエンサーのメインの収入源は試聴回数によるものでなく、タイアップ広告の報酬だという話は俺も聞いたことがある。インフルエンサーが芸能人よりも身近な存在だと思いこんでいる一般人は、まんまと企業の戦略に乗せられているわけだ。
「商売人にとっては悪い話ではないですよね」
「まあな。最初の頃は男性化粧品やアクセサリーみたいな無害なものだったから、喜んで引き受けていたよ。でもやがてビットコインやNFT投資の勧誘のタイアップが持ち込まれるようになってね」
「美倉さんはそれを引き受けるのは抵抗があったと」
「別に綺麗事を言っているわけじゃない。投資系のインフルエンサーで、自分の住所を公表している奴なんているか? いないはずだ。損をした奴が逆恨みして殴り込んでくる可能性があるからね。俺たちの場合、実店舗があるからリスクがありすぎる。それに俺たちの客は若い女の子がメインだからね」
 執事喫茶の経営者としては的確な判断だろう。
「なかなかいい条件だったけど断ったよ。でもそのことを知った和樹が『なんでやらないのか』って怒り出した」
「霞和樹(かすみ かずき)さんですか?」
 いまはネペンタ不動産で働いている、俺にキレたイケメンか。
「町尾さん、あいつに会ったのか。あいつにはやんちゃな友達が多いから、俺とは常識のラインが違っていてね。俺は『店舗第一だからダメだ』って言ったよ。そうしたら『店なんか閉じてユーチューバーに専念したい』なんて言いだした」
「それは本末転倒ですね」
「だろ? 俺は『それなら店を辞めて自由にやれ。俺は引き止めない』って言ったんだ。でも和樹はダウントン・アキバの看板がないと不安だったんだろうな。それでミカエル・セヴェリに取り入りやがった。あとは想像がつくだろう?」
 セヴェリのバックアップを得た霞和樹は、Cボーイズを使って美倉力を暴力で脅して、会社とダウントン・アキバの商標の権利を無償譲渡させたというわけか。
「霞さんはそんな無茶なことをやって、これからどうするつもりなんですかね」
「噂によると、セヴェリの出資でドバイに渡るらしい」
「アラブ首長国連邦のドバイですか? 何のために? お金がかかってしょうがないんじゃないですか」
 美倉力は笑った。
「海外なら安全だからだよ。もし投資で大損しても、ドバイまで殴り込みに行く奴はいないだろ? それにあそこはタワーマンションを立てすぎたせいで、格安でタワマンを借りられるんだ。タワマンだけじゃない。ベンツだってパテックフィリップだって月単位でレンタルできる。成功した男を偽るには最高の場所なんだよ」
 だからインフルエンサーはドバイに住みがちなのか。
「ほかのスタッフも霞さんについていくんですか?」
「ついていくのは半分くらいかな。俺に同情して会社を辞めた奴もいる」
 その瞬間、シティさんの顔が脳裏をかすめた。
「もしかして辞めたスタッフの中に、見城さんもしくは円城さんという方はいませんでしたか」
 美倉力は即答した。
「いない」
 そんなはずはない。
「この人なんですけど」
 俺は、チェキを撮影した画像を見せた。
「それ、和樹だけど」
「霞さんにはさっき会いましたけど、そんな顔じゃなかったでしたよ」
 途端に美倉力は飲みかけのビールを噴き出して笑い出した。
「ハハハハ、あいつ、また顔をいじったんだ! いい加減にもう止めろって言ったのに」
 そうか。霞和樹本人としては微修正のつもりで整形したのに、俺が同一人物だって分からなかったから、最初はしらばっくれていて、最後にはキレたのか。すると、見城なんてスタッフは最初から在籍していなかったことになる。きっと霞は、ソフトドリンクだけしか飲まない内気なシティさんを太客とはみなさず、嘘の名前を伝えたんだろう。そんなクズにガチ恋するなんて、可哀想に。
「あれ、この真ん中の子」
 美倉力が俺のスマホを見て言う。
「見覚えありますか?」
「もちろんあるよ、インドネシア出身のシティちゃんでしょ? ゴールデンタイムに海外からのツアー客がぶつかって、接客が行き届かなくなったときがあってさ。仕方なく俺がヘルプで店に出たことがあったんだよ。そうしたらさ、あの子、イスラム教徒でしょ。俺みたいなヒゲ面の方が安心したのか、常連になって何故か俺を指名するようになったんだよね。ほら俺、隣に立っているでしょ?」
 シティさんが恋していたのは美倉力だったんだ。先入観で霞にちがいないと思っていた俺が馬鹿だった。
「でもシティさんはあなたのことを見城って呼んでいましたけど……あっ」
 シティさんが言っていた「Gwen-Jaw 」は、「見城」でも「円城」でもない。「店長」だったんだ。
俺はリュックから、武蔵ビルの賃貸契約申込書のコピーを取り出すと、美倉力に見せて尋ねた。
「美倉さん、携帯電話は今もこの番号ですか?」

 それから三ヶ月が経った。ちょっと前まで死ぬほど暑かったのに、今ではもう冬の気配がする。俺は、ネペンタ不動産に電話してみた。
「アルゴンキンの町尾と申します。セヴェリ春香さんをお願いしたいのですが」
 しばらくしてから電話に出てきた彼女は、声だけでも十分キラキラしていた。
「お久しぶりです、町尾さん。もしかしてテナントの話ですか?」
「いいえ。単に入金のお礼をしたいと思っただけです」
「いつか必ず返すよ」と美倉力は言ってはいたが、俺は、彼には256万3280円の請求書は送らなかった。代わりに送った先はネペンタ不動産だった。
 セヴェリ春香は笑った。
「だって仕方ないじゃないですか。美倉さんはグランサムの社長として会社の交際費を使ってアルゴンキンで飲んだんでしょう? でも今ではグランサムは100%うちの子会社。だったらうちが払うしかないじゃない。銀座の老舗バーのツケを踏み倒したら恥だし。それに……」
「それに?」
「パパは囲間さんとは事を構えたくないんだって」
 囲間楽の名前は裏社会でも響きわたっているのか。以前から感じてはいたけど、自分の仕事を彼女自身が取り組んだら、あっという間にすべてが片付くような気がしてならない。
「そういえば霞さんは今、ドバイで配信しているんですか?」
「ええ。やってはいるんだけど、同じようなことをしているライバルがたくさん居て、フォロワー数が全然伸びてないみたい。パパはブチ切れ気味だから、あいつもそろそろ終わりかも」
「そうですか。ありがとうございます」
 どういうレベルで「終わり」なのか興味はあったけど、反社的な内容だろうから俺はあえて訊かずに電話を切った。
 シティさんに美倉力の電話番号を教えてから、ふたりがどうなったかは知らない。知っているのは、美倉力が最近YouTubeチャンネルをはじめたことだけだ。ブレクジットとロシア・ウクライナ戦争でインフレがトンデモないことになっている海外暮らしの実情を生々しく語っていて、なかなか好評らしい。題して「英国執事日記」。収録場所はイギリスのハンプシャーのようだ。


『インナー・シティ・ブルース』発売記念

『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク


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