毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の人気シリーズ「インナー・シティ・ブルース」のシーズン3。銀座を本拠地に、ディストピア感が増す東京を東へ西へ行き来しながら繰り広げられる、変種のハードボイルド探偵小説をご堪能ください!
【あらすじ】主人公・町尾回郎(まちお・まわろう)はアラサーのフリーター。銀座の外れにあるバー「アルゴンキン」での過去のツケ返済のため、自分と同じ立場の奴らからツケを回収する仕事を引き受けている。今回の標的は、西葛西に住む在日インド人コミュニティの大物、タイガー・カーン。彼に会うことはできたが、逆にある相談を引き受けてしまう。その内容は、カーンの姪、ケリーの身辺調査をしたら借金を分割ではなく一括返済するという条件つきのもの。それは回収金額のフィーで生活しているマワローにとって有り難いオファーだった───。
「マワロー、そういう調子だからツケの回収が進まないんじゃないの」
「人助けもいいけど先に自分を助けたら」
マティーニをぐびぐび飲みながら、俺をいじって楽しむ囲間楽を振り切って、俺が「アルゴンキン」をあとにしたのは午後4時40分のことだった。みゆき通りを少し歩いて、銀座シックスの正面から中央通りへと入る。以前は松坂屋だったこの場所は、終戦直後は進駐軍向けの慰安施設「オアシス・オブ・ギンザ」だったそうだ。霊感がとても強い楽さんは「若い女の子たちの苦しみの残留思念が漂っているから」と、このビルを避けて銀座を歩くらしい。
人混みをかきわけながら三越と松屋を通り過ぎ、首都高のガードをくぐって北上する。すぐに高島屋が見えてきた。目的地の日本橋コレドは、そこからほど近い永代通りとの交差点角に立つ複合施設だ。時計を見ると午後5時ちょうど。銀座から日本橋まで20分で歩いたわけだ。
距離こそ近いものの、ふたつの街の歴史は全く異なっている。銀座が明治以降に発展した街なのに対して、日本橋は江戸時代の昔から大いに栄えていた。日本橋コレドが立っているのも、江戸三大呉服店のひとつ、白木屋があった場所だったりする。現在、日本橋の多くのテナントビルを所有する三井不動産も、ルーツは幕府の御用商人、越後屋三井呉服店だ。そのせいか、コレドの路面店には「江戸」のイメージを前面に押し出したものが多い。
一方で、テナントとしてビルに入っている企業がエッジーなのも日本橋の特徴である。東京駅を挟んで反対側に位置する丸の内に、高度成長期を支えたコンサバな大企業がひしめきあっているのとは対照的に、日本橋には外資系やIT系企業が多い。ケリーさんが働いているコチンムーン・テクノロジーズもそのひとつで、コレド日本橋の上層階にオフィスを構えていた。
オフィスフロアに通じるエレベーターホールの前で、彼女が外に出てくるのを待つ。午後5時45分、ライトベージュのパンツスーツに身を包んだケリーさんが姿を見せた。終業と同時にオフィスから飛び出さないと、この時間に一階まで辿り着けない。随分と急いでいる。これから真夜中近くまで、彼女はどこで何をして過ごすのだろうか。
東京メトロの切符売り場に通じる階段を、足早に降りていくケリーさんの姿を追っていくと、彼女が東西線の改札をくぐるのが見えた。向かったホームは、叔父のタイガーさんが待つ西葛西方面ではなく、反対方面にあたる三鷹行きだった。
ケリーさんに気づかれないように、俺もホームにやって来た東西線の車両に乗り込む。車内は、帰宅を急ぐサラリーマンでいっぱいで、混雑度は次の駅の大手町でさらに増した。距離を保ちながら尾行対象を見失わないようにするには最悪の時間帯だ。爪先立ちしながら、ケリーさんの姿を必死に追う。電車はほかの路線と乗り換えできる九段下、飯田橋と停車していったが、彼女は降りようとしない。
ケリーさんが車両を降りたのは、次の神楽坂駅だった。花街の情緒が残る通好みの街に、最先端のIT技術者が下車するとは思わなかった。慌てて俺も電車から降りる。改札から外に出た彼女は、案内板も見ずに、「1B」と書かれたサインが掲げられている階段をのぼりはじめた。明らかにケリーさんは何度も訪れている場所に向かっている。地上に出た彼女は、赤城神社の境内の方向に向かって歩き出した。
赤城姫命(あかぎひめのみこと)という名の女神を祀っている赤城神社は、700年以上の歴史を持ち、江戸時代には日枝神社、神田明神と「江戸の三社」として並び称されたほどの由緒ある神社だ。太平洋戦争末期の空襲で全焼したため、こうした地位からは滑り落ちてしまったものの、現在は国際競技場を手掛けた隈研吾の設計による本殿の格好良さによって「東京一お洒落な神社」として知られている。
まさか、ケリーさんはヒンズー教を捨てて、密かに神道に帰依したとか? しかしそんな俺の当てずっぽうの推理は5秒と持たなかった。彼女は境内の手前で右折すると、住宅街へと足を踏み入れたからだ。2〜3分ほど歩いただろうか。ケリーさんは、「ロイヤルマンション神楽坂」と刻まれた館銘板が赤茶色のタイルの上に貼られたヴィンテージマンションのエントランスから入っていくと、エレベーターに乗り込んだ。
一緒に乗ったら、絶対怪しまれるだろう。俺はエレベーターを見送った。電光表示板は「3」を示したところで止まった。つまり彼女は3階で降りたわけだ。一旦マンションの外に出て、道路を走ってバルコニー側へと回り込む。3階はひとつの部屋しか灯りがついていない。ケリーさんはその部屋を訪れているにちがいない。誰かと密会しているのだろうか。怪しい奴でなければいいのだが。姪を心配するタイガーさんの深刻そうな顔が俺の脳裏に浮かんだ。
しばらくエントランスの前で、スマホをいじっているフリをしながら、人の出入りがないか見張ることにした。すると金回りの良さそうな中年カップルが、マンションに入ってくる。マンション名を確認していたところを見ると、ここの住人ではない。今度は俺もエレベーターに同乗した。
予想通り、カップルは3階でエレベーターを降りた。俺も時間を置いて廊下に出てみると、ふたりがケリーさんがいる部屋の呼び出しベルを鳴らす姿が見えた。
「こんばんは。どうぞ」
男の声が中から聞こえる。カップルはドアを開けると室内へと消えていった。玄関正面まで行ってみる。302号室。表札には何も書かれていない。
玄関から離れた場所から、俺はなにか動きがないか見張り続けた。それは無駄にはならなかった。302号室への来訪者は、彼らが最後ではなかったからだ。それから30分ほどの間に、ストリートブランドに身を包んだ若い男女、外国人の男性二人連れ、品の良い老婦人とその娘らしき中年女性といった年齢もファッションもバラバラの人たちが次々と部屋を訪れた。しかしある時間が過ぎると、人の来訪はパタっと止まり、2時間以上の間、誰も外に出てこなかった。
部屋の中で行われているのはスピリチャル系のセッションだろうか。ケリーさんが帰依したのは、神道どころではなくカルト団体なのかもしれない。そもそも表札に何も書いていないところが怪しい。
来訪者たちが部屋の外に出て来たのは夜10時過ぎだった。皆、何かを発見したかのような満足げな表情を浮かべている。さきほどのカップルが何事か話しながら駅に向かって歩いていくので、聞き耳を立てながら少しの間尾行してみると、ふたりはセッションの感想を話し合っていた。
「とにかく圧倒されたよ」
「人生観を変えさせる体験だったよね」
顔を紅潮させたケリーさんがマンションの外に姿を表したのは、それからさらに1時間ほど後だった。もしかすると彼女はカルト団体の中で、他の来訪者よりも高い地位にいるのかもしれない。
その夜はケリーさんの身の安全が気になって、なかなか寝つけなかった。
翌朝起きても、あの怪しげなセッションのことがどうしても頭から離れない。時間に余裕があったので、俺はあのマンションの部屋をアポ無しで訪問してやろうと決めた。なーに、友達の家だと思って間違って来たフリをすれば、たとえ相手がカルト教団だったとしても危険な目には遭わないだろう。
午後1時30分過ぎに神楽坂に到着すると、俺は昨日と同じルートで「ロイヤルマンション神楽坂」の302号室の玄関前に辿り着いた。深呼吸してから、呼び出しベルを鳴らす。
「こんにちは」
扉が開くと、髪を後ろにきつく束ねた若い男性が姿を現した。白いマオカラーのシャツにゆったりとしたダークグレーのパンツを履いている。
「こんにちは。どちらさまでしょうか」
「あ、アルゴンキンの町尾回郎と言います」
しまった。緊張のあまり、素性を明かしてしまった。
「あれっ、この時間に予約されていましたっけ?」
男からの質問に窮していると、後ろから声が聞こえた。
「いいですよ。今日一件キャンセルが出ちゃったので、せっかくですからあがって下さい」
部屋の奥には、40代らしきヨーロッパ系の男が笑顔を浮かべながら立っていた。明るいブラウンの髪はオールバックに撫でつけられて、お洒落ヒゲを生やしている。ブラックジーンズにデニムシャツというラフなファッションで、めくりあげた袖からはタトゥーが見えた。堅気には見えないけど、かといってカルト教団の教祖にも見えない。いや、このカジュアルなノリで信者を惹きつけているのかもしれない。
部屋の奥に招かれると、コンクリートが剥き出しになった20畳ほどの空間に幾つかのテーブルと椅子が置かれている。この時間帯は俺以外の来訪者はいなさそうだ。若い男から座るように促されたので、俺は腰を下ろした。テーブルには、カメラとインスタグラムのアイコンの上にバッテンが描かれた小さなプレートが置かれている。写真撮影とSNSは禁止というわけか。俺は人に明かせないようなハードな修行を覚悟した。
若い男がテーブルにミネラルウォーターが注がれたコップと紙を持ってきた。催眠ドラッグでも飲ませるつもりか。俺は紙に何が書かれているかを凝視した。
本日のランチ 9500円
北海道余市のスパークリングワイン
全粒粉のパン
勝浦産、本マグロのマリネビーツのドレッシング
グリーンピースの冷製スープ
豊洲市場より本日の魚料理サワラのポワレ
バスク風チーズケーキブルーベリーソースヨーグルトのソルベ添え
コーヒー
これは食事のメニュー? そうか、ここは隠れ家風フレンチ・ビストロだったんだ。神楽坂にはフレンチのレストランがとても多い。理由は日本におけるフランス語教育・フランス文化の発信地であるアンスティチュ・フランセ東京の存在にある。1952年にフランス政府がこの施設を神楽坂に設立した際、多くのフランス語教師とその家族がこの街に住み始めた。
彼らは、江戸時代の面影を残す石畳の細い路地や急な坂にパリの景色を見出したらしい。たしかに神楽坂を下りきった場所にあるカナルカフェで、皇居外堀の水辺を眺めながらコーヒーを飲んでいると、セーヌ河沿いのカフェで安らいでいるような気分にならないこともない。
そんなこんなでここ一帯にはフランス人コミュニティが形成され、今や東京に住むフランス人の1/4は神楽坂のある新宿区に住んでいるそうだ。そして彼らの鋭い舌によって、フレンチ・レストランのレベルはどんどん上がっていき、神楽坂は東京きってのフレンチ激戦区になったのだ。そんな街で、住所も明かさずに営業できているのだから、このレストランのレベルは相当なものなのだろう。
ケリーさんはこのレストランに毎晩のように通い詰めていることになる。勤務先の接待をきっかけにこの店を知って、魅力に取り憑かれたのだろうか。いや、もしかすると目当てはあのシェフなのかもしれない。フレンチのシェフはとてもモテるそうだし。
俺は思いを巡らせながらも、運ばれてくる皿を次々と平らげた。めちゃくちゃ美味い。実は1時間ほど前に牛丼の大盛りを食べているのだけど、繊細にして豪快、伝統と前衛を行き交う味が、俺の満たされていたはずの胃を拡張してしまうのだ。
「とにかく圧倒されたよ」「人生観を変えさせる体験だったよね」というカップルの感想が何を指していたのか、ようやく分かった。
サワラのポワレを食べ終わったところで、シェフが俺のテーブルに近寄ってきた。
「いかがでしたか」
なぜかシェフ直々に感想を聞かれてしまった。ひょっとすると「アルゴンキンの町尾回郎」と名乗ってか険しい顔をしながら食べていたため、同業者と思われたのかもしれない。俺は取り繕うように返事した。
「いやー、噂には聞いていましたけど、めちゃくちゃ気合入ってますね」
「ありがとうございます。まだ少し食べられますか?」
「ええ」
「せっかくですから裏メニューを食べていただきたいなと思いまして。もとはスタッフ用のまかないカレーだったんですけど、これが評判になりまして」
シェフの説明とともに、若い男が小さな深皿を持って来る。それはナンが添えられたカレーだった。
ナンを手で摘んでカレーを掬って一緒に口に運ぶ。こんなカレー、食べたことがない。スパイシーでありながら実にまろやか。ベースは洋食屋のカレーなのだが、複雑なスパイスの妙は明らかにインドカレーの影響下にある。そして何よりこの隠し味的な酸味……どこかで食べた気がする。
「凄い味ですね。このカレーもあなたが作られたんですね?」
シェフは苦笑いしながら否定した。
「作れるものなら私が作りたかったんですけどね。これはスタッフの作品です。いま作者を呼びましょう」
俺のテーブルにコック帽を被った女性が近づいてくる。俺は一瞬ケリーさんなのではないかと期待したが、彼女は今頃、日本橋コレドで働いているはずだ。では一体誰なんだろう。女性は俺にぺこりとお辞儀をすると顔をあげた。東アジア系特有の彫りの浅い顔にインド系由来の大きな瞳を備えたキュートな顔立ちをしている。あれっ、もしかして。俺は彼女に話しかけた。
「ひょっとして、ウェイウェイさん?」
PROFILE
長谷川町蔵
文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。
https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000
『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters
2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税
著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク