インナー・シティー・ブルース シーズン3
長谷川町蔵 著
第十九話:ホット・スタッフ 前編(東西線)

illustration_yuriko oyama

インナー・シティー・ブルース シーズン3
長谷川町蔵 著
第十九話:ホット・スタッフ 前編(東西線)

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 毎回、東京のある街をテーマに物語が展開する長谷川町蔵の人気シリーズ「インナー・シティ・ブルース」のシーズン3。銀座を本拠地に、ディストピア感が増す東京を東へ西へ行き来しながら繰り広げられる、変種のハードボイルド探偵小説をご堪能ください!

【あらすじ】主人公・町尾回郎(まちお・まわろう)はアラサーのフリーター。銀座の外れにあるバー「アルゴンキン」での過去のツケ返済のため、自分と同じ立場の奴らからツケを回収する仕事を引き受けている。今回の標的は、西葛西に住む在日インド人コミュニティの大物、タイガー・カーン。彼は支払いを渋り、マワローは何度も葛西に通って、ようやく分割払いに応じさせる。しかしそのカーンがあらためて「相談したいことがある」と言ってきた。しかも待ち合わせ場所はいつものオフィスではなく、別の場所。マワローは、あちらが指定してきた「行船公園」へひとりで向かう───。

 クイズ。地下鉄なのに、地上ばかりを走っている東京メトロの路線は何線でしょう? 
 答えは東西線。30キロの全走行距離の何と約半分も地上を走っている。現に俺を乗せた車両は、東陽町を過ぎた地点で地上にあがって、荒川に架かる橋を渡ったところだ。5月の空が晴れ渡っていて気持ちがいい。これからこの車両は、終点の西船橋まで高架を走り続けることになる。
前職の旅行代理店時代に先輩だった久世野照生から、地上ばかりを走る理由を教えてもらったことがある。そもそも地下鉄が作られるようになったのは、建物が地上に建ち並んでいて線路用地を買収するのが困難な都心部に電車を走らせるためだった。ところが東西線の路線計画が決定された1960年代の時点では、荒川より東側は田畑ばかりだった。しかも江戸時代に灌漑工事で陸地となったこの一帯の地下水位は高く、地下掘削は海中工事並みの高コストになること必至だった。このため運営サイドは地上の田畑買収を選んだらしい。
 こうした経緯から、荒川以東の東西線沿線の駅周辺は、どれも開通後に開発された人工的な街である。どの駅舎前にもバス・ロータリーがあり、それを取り囲むようにコンビニやマクドナルドが並んでいる。そこからさらに奥へと歩いていくとイオン、しまむら、GU、ガスト、ケーズデンキといった各種チェーン店に巡り会う。東京だけでなく、日本中のどの県にもある「ファスト風土」と揶揄される郊外の光景だ。
 荒川以東の最初の駅にあたる西葛西は、そういう意味では都心に最も近いファスト風土の街になる。改札を出た俺は、それなりに人が行きかっているにも関わらず、なぜか寒々しく感じる郊外特有のヴァイブスを感じた。30分前まで俺が居た、猥雑な熱気が渦巻く都会の街と、同じ東西線の駅とは到底思えない。

 30分前まで、俺が居たのは高田馬場だった。「リトルヤンゴン」でカレーを食べていたのだ。「リトルヤンゴン」とは、山手線と西武新宿線の高架に挟まれた雨漏りだらけの古い雑居ビルの2階で営業するミャンマー料理のレストランだ。看板には日本語が一切書かれていないため、俺以外の客はミャンマー人ばかり。高田馬場には1000人近いミャンマー人が住んでいるので、彼らだけを相手にしていれば商売に困らないそうなのだ。日本人はお呼びでない、そんな店に足繁く通うようになったきっかけは、囲間楽(かこいま・らく)だった。
 一年ほど前に「アルゴンキン」の未収金回収がまったく進まなかった月があって、仕方なく楽さんに生活費の前借りをお願いしたことがあった。すると彼女は笑いながら、金を貸す代わりに、リトルヤンゴンの未来永劫食事無料の権利を譲ってくれたのだ。何でも以前、店のオーナーのカウンさんのトラブルを解決してあげて、感謝の印として未来永劫食事無料の権利をプレゼントされたものの、食事といえば酒のツマミしか食べない彼女にとっては宝の持ち腐れだったらしい。「タダより安いものはない」と通い始めたものの、やがて辛さの中にコクとほんのり酸味を感じるミャンマーカレーの魅力に病みつきになった。
「マワロー、楽ちゃんは元気?」
 ランチ客が全員いなくなって、暇になったカウンさんが俺に話しかけてくる。
「ええ、最近忙しいみたいですよ」
 以前はアルゴンキンでマティーニグラス片手にスマホをいじっているだけだと思っていた楽さんの本業が最近だんだん分かってきた。どうやら政府や大企業からの依頼で、東京のあちこちで発生する事件の解決に当たっているらしい。俺を雇ったものの、東京オリンピック前後からそちらに手一杯になってしまい、アルゴンキンの未収金回収までとても手が回らなくなったのが理由のようだ。でも何故俺なんかを雇ったんだろう。
 そんなことをぼんやり考えていると、カウンさんがいつものようにスマホで撮った自分の娘の写真を俺に無理やり見せてくる。
「ウェイウェイ、可愛いでしょう? マワローなら相手として考えてもいいよ」
「またまた!」
 東アジア系特有の彫りの浅い顔にインド系由来の大きな瞳を備えたハイブリッド民族国家ミャンマーを象徴するような顔立ちをしている彼女は確かにキュートだ。もっとも実際に彼女に会ったことは一度もない。彼女は「日本語がペラペラになりたいのに、ここにいたらいつまで経っても上手くなんかなれない」と父親に告げて、別の飲食店で働いているからだ。
「このあと何処に行くのか?」
 カウンさんに訊かれたので、俺は正直に答えた。
「西葛西です。あるインド人実業家から呼び出されまして」
 そう答えると、彼の顔色が途端に変わった。
「インドの人、信用しちゃいけない。マワロー、気をつけた方がいいよ」
 余計なことを言ってしまった。ミャンマーとインドは現在、微妙な関係にある。日本に住むミャンマー人は、長らくこの国を支配してきた軍事政権が嫌でこちらにやってきた人が多い。2016年にようやく文民政権が成立したものの、その5年後に軍部がクーデターを起こして権力を奪い返してしまった。これに対して欧米諸国はミャンマーに経済制裁を行ったが、歴史的に深い関係にあるインドはこれに参加していない。制裁の反動でミャンマーが中国に接近する可能性を恐れているらしい。

 西葛西の街は先ほども言った通り、一見何の変哲もない典型的な郊外の街だが、歩き回ると面白いことに気づく。ムンバイキッチン、バームナル、スパイスマジックカルカッタ。そう、インド料理店がやたらと多いのだ。Googleマップに出てくるだけでも駅周辺に10以上もある。それだけでなくインド食材ショップも複数存在する。西葛西は、日本に住む約3万人のインド人のうち約3千人が住むインド・タウンなのだ。
 外国人向け物件を多く扱っている知り合いの不動産屋セヴェリ春香に言わせると、インド人がこの街に集まった理由は大きく2つある。ひとつは交通アクセス。インド人の多くはITエンジニアや金融系の企業に勤めているため、東西線で大手町や日本橋といったビジネス街に乗り換えなしで行ける利便さを評価しているそうだ。ふたつめはURの賃貸住宅が多いこと。外国人に偏見を持つ大家が少なからずいる民間賃貸物件よりもURの入居審査の方が断然フェアらしい。
 俺をこの街まで呼び出したタイガー・カーンは、最初期に西葛西に住みはじめたインド人のひとりで、カレースタンドからスタートして、アクセサリーショップやレンタルビデオ店、スマホショップなどに手を広げて来た在日インド人コミュニティの大物である。
 そんな彼が、日本における大成功を決定づけた場所こそがアルゴンキンだった。人づてにアルゴンキンを知って通い始めたタイガーさんは、そこで仲良くなった教育業界の大物と、インド式算数塾のノウハウをライセンスする事業を立ち上げて、ひとかどの財産を築いたのだ。
だからタイガーさんがアルゴンキンにツケとして溜めこんでいた658万3200円を支払うことは簡単なはずだった。しかし彼は支払いを渋りまくり、俺は何度も葛西に通って、ようやく分割払いに応じてくれたのだった。
 その彼が「相談したいことがある」と言ってきた。しかも待ち合わせ場所はいつものオフィスではなく、別の場所だ。ひょっとして支払い延期の相談だろうか。コロナ下においても算数塾は堅調どころか、オンライン授業に舵を切ったことで寧ろ会員数を増やしているはずなのだが。
 タイガーさんが、俺のスマホに送ってきた待ち合わせ場所は、街外れにある大きな区立公園だった。トラックが行き交う葛西橋通りを歩道橋で渡って、巨大な石に「行船公園」と刻まれているのを確認すると俺は中へと足を踏み入れた。
 途端に出くわしたのはペンギンだった。石像でも着ぐるみでもない。本物のフンボルト・ペンギンである。ペンギンだけではない。遊歩道沿いにはケージがずらっと並んでいて、それぞれにテナガザルやレッサーパンダ、プレーリードッグ、ワラビーがいる。なかなかのメンツだ。これほどの動物たちを無料で観れるなんて、何だか得した気分だ。
動物園エリアを通り抜けた俺を、次に待っていたのは日本庭園だった。Googleマップに立てられたピンを見る限り、タイガーさんはこの中で俺を待っている。石畳を歩いていくと、純和風の池と、その周りに秩序を守った形で植えられている木々が見えた。池を一望できる場所には藤棚が設けられていて、その下にウッドチェアが並べられている。そのひとつに全身白装束で立派な髭を蓄えた老人が悠然と座っていた。タイガーさんだ。おそらく同胞に見つからないようにと日本庭園を選んだのだろうけど、遠目でも誰なのかすぐ分かってしまうので、俺にはあまり効果的な策ではないように思えた。
「タイガーさん」
 俺が呼びかけると、タイガーさんはその場で立ち上がり、「おお、町尾さん」と手を広げて歓待するようなポーズをとった。俺は彼の隣に座ることにした。
「こんな場所があるなんて知りませんでしたよ」
「もとは地元の名士の自宅だったらしいですな」
 タイガーさんはそう言うと自分の夢を語った。
「私もいつかクリケット・コートを江戸川区に寄付したいと考えているんですよ」
 旧大英帝国に住む人々の間でしか人気がないスポーツ専門の施設を寄付されたら、維持管理しなくてはいけない江戸川区はたまったものじゃないけれど、タイガーさんならやりかねないし、押しつけに成功してしまいそうなのが恐ろしい。
 21世紀の資本主義を代表する企業であるマイクロソフトとGoogleのCEOは現在インド系である。それは彼らが理数系に優れているからだけではなく、折衝能力の天才でもあるからだ。広大な国土に400以上の異なる言語を喋る民族が暮らすインドで生きて来た彼らには、他者の意向を読み取りながら、自分の意見を押し通す調整スキルが伝統的に身についているのだ。
 タイガーさんが振り向き、俺の顔をじっと見つめる。
「今日わざわざ町尾さんに来てもらったのは、秘密でお願いしたい事があるからなんですよ」
 そう言うと、彼は胸ポケットからスマホを取り出して、写真を見せた。
 黒髪をセンター分けにした丸顔の女性が写っている。二十代後半くらいだろうか。童顔ではあるけど意思が強そうで、いかにも仕事が出来そうな雰囲気を醸し出している。
「姪のケリーです」
 まさか俺に付き合えと言うのだろうか。表情からそれを読み取ったのか、タイガーさんは笑いながら否定した。
「ハハハ、お見合い写真じゃないですよ。ケリーは日本のIT企業で働いているのですが、最近帰りが真夜中近いんです」
「仕事が忙しいんじゃないですか?」
「本人もそう言ってはいるんですが、優秀な子なのでこれまで残業なんか滅多にしなかった。しかも毎晩遅いのに、妙に元気なのですよ」
 俺はタイガーさんが何を考えているのかを察した。
「ケリーさんが誰かとデートしていると考えているのですね? しかもそれを隠しているということはインド人以外、しかも良からぬ相手にちがいないと」
 タイガーさんは深刻そうな表情を浮かべる。
「それが本当だとしたら、兄に申し訳が立たない。私を大学まで通わせて日本に渡る金を出してくれたのは兄なのです。だから恩義があります。子どもの中で一番出来が良かったケリーを日本に住む私に預けたのも、私を信用していたからこそなのですよ」
「で、相手が誰か、俺に調べろと」
「その通りです」
 日本在住のインド人の中にも身辺調査が得意な人はいそうなものだが、調査内容がインド人コミュニティ内のスキャンダルになる可能性もあることから、外部の人間にやらせようということか。でもだからといって、俺が引き受けなきゃいけない理由がどこにある?
「なるほど。タイガーさんのご心配はわかります。でもなぜ私がそれを請け負わなければいけないのでしょうか?」
タイガーさんは答えた。
「理由などないですよ」
「えっ?」
「だがあなたが相手を突き止めてくれたら、お金を分割ではなく一括返済してあげましょう」
 タイガーさんが提示した条件は、反論の余地がないものだった。冷静に考えてみれば、本来は一括返済で返すべき借金の返済方法を元通りに戻しただけである。しかし回収金額のフィーで生活している俺にとってはこれ以上ないくらい有り難いオファーだった。それに今月は取り立てがあまり進んでいない。また楽さんに前借りをお願いして、笑われる事態だけは避けなければいけない。
 俺は覚悟を決めた。
「わかりました。ケリーさんの勤務先を教えてください」


『インナー・シティ・ブルース』発売記念

『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:前編
『インナー・シティ・ブルース』発売記念・長谷川町蔵1万字インタビュー:後編

PROFILE

長谷川町蔵

文筆業。最新刊は大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門3』。ほかに『サ・ン・ト・ランド サウンドトラックで観る映画』、『あたしたちの未来はきっと』など。

https://machizo3000.blogspot.jp/
Twitter : @machizo3000

『インナー・シティ・ブルース』
Inner City Blues : The Kakoima Sisters

2019年3月28日(木)発売
本体 1,600+税

著者:長谷川町蔵
体裁:四六判 224 ページ 並製
ISBN: 978-4-909087-39-3
発行:スペースシャワーネットワーク


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